都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
或淨土宗ノ僧、每々參ラレシガ、或時來テ曰、汝ハ儒者ノ事ナレバ、佛法ヲ勸ムルニハアラネドモ、無常變易ノナラヒナレバ、又徒然ノ折カラハ、百遍二百遍ヅヽ成トモ、念佛ヲ勉ラレナバ、後世ノ便リトモ成ルベシ、且儒ニテ、終聞及バザルノ大事モ、佛法ニハコレアレバ申スコトナリ、
新字:或浄土宗ノ僧、毎々参ラレシガ、或時来テ曰、汝ハ儒者ノ事ナレバ、仏法ヲ勧ムルニハアラネドモ、無常変易ノナラヒナレバ、又徒然ノ折カラハ、百遍二百遍ヅヽ成トモ、念仏ヲ勉ラレナバ、後世ノ便リトモ成ルベシ、且儒ニテ、終聞及バザルノ大事モ、仏法ニハコレアレバ申スコトナリ、
書き下し
或浄土宗の僧、毎々参られしが、或時来りて曰く、汝は儒者の事なれば、仏法を勧むるにはあらねども、無常変易のならひなれば、又徒然の折からは、百遍二百遍づゝ成りとも、念仏を勉められなば、後世の便りとも成るべし。且つ儒にて、終に聞き及ばざるの大事も、仏法にはこれあれば申すことなり。
現代語訳
ある浄土宗の僧がたびたび訪ねて来ていましたが、ある時こう言いました。「あなたは儒者なので仏法を勧めるわけではありませんが、世は無常で移り変わるものですから、手の空いたときに百遍でも二百遍でも念仏を唱えておかれれば、後の世の助けにもなるでしょう。それに、儒学ではついに聞くことのできない大事が仏法にはあるので、申し上げるのです。」
解説
卷之四の第二の段は、なじみの浄土宗の僧が梅岩に念仏を勧めるところから始まります。僧は好意から、儒学には無い「大事」が仏法にはあると言います。梅岩は儒者と見られていましたが、神道・仏教・老荘にも学び、それらを心を知るための手段として使い分けた人でした。ですからこの段は、仏教を否定する論争ではなく、何を「大事」と呼ぶのかをめぐる問答として読めます。異なる流儀の人から好意で勧められたとき、どう受け止めるかという場面でもあります。
この章句が説くこと
念仏浄土宗仏法儒者後世
関連する章句
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段答ふ、思し召しよられ、斯く申さるゝこと、過分のいたりに候。扨其儒になき大事とは、如何なることに候や。曰く、先づ儒仏道ともに、勧善懲悪の教は、しれたることなれば、相替ることもなかるべし。如何としても、儒には教のとゞかざることあり。
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