都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
曰、汝ガイヘル如クナラバ、心ヲ得ル爲メニハ、佛法ヲ雜ヘ用ユルモ、然ルベキト聞ユ、然レドモ、佛法ハ我ガ業ニアラザレバ、同クハ儒ニテ知リ得度候、佛法ヲ除キ得ルコトハ、ナシガタキコトニテ候ヤ、答、孟子曰、無惻隱之心非人也、無羞惡之心非人也ト、汝最前ヨリ、心ヲ不得ヲ苦ンデ赤面シ、不善ヲ恥ルハ、卽羞惡ノ心ナリ、其羞惡ノ心ヲ推テ知ラバ、仁義ノ良心ニ至ルベシ、何ゾ佛法ニヨルコトアラン、我心ヲ得レバ、儒佛ノ名ヲ離レタルモノナリ、譬バ此ニ一人ノ鏡磨者アラン、上手ナラバ、鏡ヲ磨ニ可遣、磨種ニナニヲ用ユト可問ヤ、儒佛ノ法ヲ用ユルモ如斯、我心ヲ琢磨種ナリ、琢テ後ニ、磨種ニ泥コソヲカシケレ、縱儒家ニテ學ブトイフトモ、
新字:曰、汝ガイヘル如クナラバ、心ヲ得ル為メニハ、仏法ヲ雑ヘ用ユルモ、然ルベキト聞ユ、然レドモ、仏法ハ我ガ業ニアラザレバ、同クハ儒ニテ知リ得度候、仏法ヲ除キ得ルコトハ、ナシガタキコトニテ候ヤ、答、孟子曰、無惻隠之心非人也、無羞悪之心非人也ト、汝最前ヨリ、心ヲ不得ヲ苦ンデ赤面シ、不善ヲ恥ルハ、即羞悪ノ心ナリ、其羞悪ノ心ヲ推テ知ラバ、仁義ノ良心ニ至ルベシ、何ゾ仏法ニヨルコトアラン、我心ヲ得レバ、儒仏ノ名ヲ離レタルモノナリ、譬バ此ニ一人ノ鏡磨者アラン、上手ナラバ、鏡ヲ磨ニ可遣、磨種ニナニヲ用ユト可問ヤ、儒仏ノ法ヲ用ユルモ如斯、我心ヲ琢磨種ナリ、琢テ後ニ、磨種ニ泥コソヲカシケレ、縦儒家ニテ学ブトイフトモ、
書き下し
曰く、汝がいへる如くならば、心を得る為めには、仏法を雑へ用ふるも、然るべきと聞こゆ。然れども、仏法は我が業にあらざれば、同じくは儒にて知り得たく候。仏法を除き得ることは、なしがたきことにて候や。答ふ、孟子曰く、惻隠の心無きは人に非ず、羞悪の心無きは人に非ずと。汝最前より、心を得ざるを苦しんで赤面し、不善を恥づるは、即ち羞悪の心なり。其の羞悪の心を推して知らば、仁義の良心に至るべし。何ぞ仏法によることあらん。我が心を得れば、儒仏の名を離れたるものなり。譬へば此に一人の鏡磨ぐ者あらん。上手ならば、鏡を磨ぎに遣はすべし、磨ぎ種になにを用ふと問ふべきや。儒仏の法を用ふるもかくの如し、我が心を琢く磨ぎ種なり。琢きて後に、磨ぎ種に泥むこそをかしけれ。縦ひ儒家にて学ぶといふとも、
現代語訳
問う人が言います。あなたの言う通りなら、心を得るためには仏法を混ぜて用いるのもよいと聞こえます。けれども仏法は私の生業ではないので、同じことなら儒で知り得たいのです。仏法を除いて得ることはできないのでしょうか。梅岩は答えます。孟子は「惻隠の心がないのは人ではない、羞悪の心がないのは人ではない」と言いました。あなたは先ほどから、心を得られないことに苦しんで顔を赤らめ、不善を恥じている。それこそが羞悪の心です。その恥じる心を推し広めて知れば、仁義の良心に至るでしょう。どうして仏法による必要があるでしょう。自分の心を得れば、儒だ仏だという名を離れたものになります。たとえばここに鏡を磨ぐ職人がいるとします。上手なら鏡を磨ぎに出せばよいので、磨き粉に何を使うかを問うでしょうか。儒仏の法を用いるのも同じで、自分の心を磨く磨き粉です。磨いた後に磨き粉にこだわるのはおかしなことです。たとえ儒家で学んだとしても、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段学び得ざれば益なし。仏家を学ぶとも、我が心を正しく得るならば善かるべし。心に二つの替りあらんや。仏家に習へば、心が外に替る者と思ふ者は、笑ふにも又絶えたり。仏家も、最初は儒学より入る僧多し。儒書が妨げになりて、仏意を得ること成り難きことを聞かず。儒者も其の如くに、仏法を以て、心の磨ぎ種にして心を得て、何ぞ儒家の妨げとなるべきや。既に仏氏儒者の方にて発明しても、用ふる所は仏法に用ふるなり。又経論に因りて見れば、仏は覚なり、覚は、一切衆生の迷ひ、解くるなりとあり。迷ひ解くれば、本に帰るゆゑに、三界唯一心と云ふ。迷ひの解けたる体を名付けて仏性と云ふ。仏性と云ふは、天地人の体なり。至極の所は、性を知る外に仏法あらんや。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、古歌に、こゝろのとはゞいかゞこたへんと有ごとく、心に問ばやすきには非ず。人がとへば、儒者などは、奉禄渡世のことを思ふ者にてもなし、元来天より来て天に帰ると、潔白にいへども、実は潔白ならず。心は糞土に蓋をして置やうにて、安からず苦むなり。然りといへども、如何ともすべきやうなし。是は儒者計にてもなく、仏者も前にいへる如くなれば、世間並なりと思ふ。尤仏者は、広ことなれば、千人に一人、得心の僧もあるべけれど、儒者は数も少ければ、弥罕なるべし。
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『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段又問、然らば、汝も心を知て教られ候や。其心を知と云は、如何なることぞや。答、心は、言句を以て伝らるゝ所にあらず。心は体を以て言者あり、譬ば玉の鏡の如し、四方上下を照す。程子所謂明鏡止水、是なり。又用を以て言者あり、孟子所謂心の官は、思ことを司、飢ては食を思、渇は飲を思ふ。子曰、視思明、聴思聡、貌思恭、是なり。凡て云へば、聖人は、天地万物を以て心とし玉ふ。口伝にて知らるゝ所にあらず。我に於て会得する所なり。蒸民の詩曰、有物有則と。父子間にて云はゞ、父の慈愛有は父の心、子の孝行有は子の心、万事にわたりて如此、是は聞へ易が如し。然れども一度決定し、疑晴ることなきときは、正く聞得ることあたはず。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、然らば修行の功を積み、心を得て道の疑ひ無きほどに至り、何程の勝れたること候や。答ふ、孟子の曰く、我四十にして心を動かさずと。国天下のことに預りて、恐れ疑ふことなく、身を修むるを勝れたりと云ふ。然るに世の中に、道を教ふる為に弟子を取り、教ふることを知らずして、弟子に養はるるは逆なり。これを譬へていはば、男たる者、我が女房を養ふことを得せずして、反つて女房に養はるる如し。心を知らずして教ふるときは、かくの如く逆に至る。大学の道は明徳を明らかにするを本と為し、民を新たにするを末と為す。学者たる者、心を知るを先とすべし。心を知れば身を敬む。身を敬むゆゑに礼に合ふ。故に心安し。心安きは是れ仁なり。仁は天の一元気なり。天の一元気は、万物を生じ育ふ。此の心を得るを学問の始とし終とす。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答ふ、我が思ふは左には非ず。仏者には少なるべし、儒者には数も多かるべし。儒者といふは、学者のことなれども、儒は濡にて、身を濡すと云ふことなれば、此の身にて満足したる者を、儒者といふべし。孟子曰く、人々己に貴き者あり。己に貴きは心なり。心を得て満足し、身を濡す者は儒者なり。何ほどに出家多しといふとも、俗人の十分の一にも及ばず、人数少なきゆゑに、悟道の人罕なるべし。俗は数万のことなれば、身を濡す人も多からん。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段答ふ、学問の至極といふは、心を尽くし性を知り、性を知れば天を知る。天を知れば、天即ち孔孟の心なり。孔孟の心を知れば、宋儒の心も一なり。一なるゆゑに註も自ら合ふ。心を知るときは、天理は其の中に備はる。其の命に違はざる様に行ふ外、他事なかるべし。