都鄙問答 / 卷之一・孝ノ道ヲ問ノ段
答、汝モ少ハ學問ヲ致サレシト見テ、孝經ヲ引用トイヘドモ、盡本意ニ違ヘリ、父有爭子則身不陷於不義トノ玉フハ、親無道ニシテ欲惡甚シク、或ハ君ヲ弑シ、國ヲ奪、下タル者ハ盜ナドヲナス、大ナル不義アル時ハ、善ニ遷シメン爲ノ爭ナリ、汝ハ親ニ仁義ノ心有テ人ヲ救ヲ、我不仁不義ヲ以テ、拒爭ト云モノナリ、子トシテハ親ヲ善ニ導ベキヲ、反テ惡道ヘ陷イレシムルコト有ベキヤ、汝ノ如ク書ヲ見ナス者モ、學問セシ者ト云ハヾ、世ノ人、學問ハ不仁ノ本トナリト思ベシ、然ル時ハ、學問ヲ廢罪人ナリ、元來世間ニ、書ヲ讀而已ヲ學問ト思ヒ、書ノ心ヲ知ラザルユヘニ、汝ガ如ク見誤ルコト多シ、總テ經書ハ聖人ノ心ナリ、聖人ノ心モ我心モ、
新字:答、汝モ少ハ学問ヲ致サレシト見テ、孝経ヲ引用トイヘドモ、尽本意ニ違ヘリ、父有争子則身不陥於不義トノ玉フハ、親無道ニシテ欲悪甚シク、或ハ君ヲ弑シ、国ヲ奪、下タル者ハ盗ナドヲナス、大ナル不義アル時ハ、善ニ遷シメン為ノ争ナリ、汝ハ親ニ仁義ノ心有テ人ヲ救ヲ、我不仁不義ヲ以テ、拒争ト云モノナリ、子トシテハ親ヲ善ニ導ベキヲ、反テ悪道ヘ陥イレシムルコト有ベキヤ、汝ノ如ク書ヲ見ナス者モ、学問セシ者ト云ハヾ、世ノ人、学問ハ不仁ノ本トナリト思ベシ、然ル時ハ、学問ヲ廃罪人ナリ、元来世間ニ、書ヲ読而已ヲ学問ト思ヒ、書ノ心ヲ知ラザルユヘニ、汝ガ如ク見誤ルコト多シ、総テ経書ハ聖人ノ心ナリ、聖人ノ心モ我心モ、
書き下し
答ふ、汝も少しは学問を致されしと見えて、孝経を引用すといへども、尽く本意に違へり。父に争子有れば則ち身不義に陥らずとのたまふは、親無道にして欲悪甚だしく、或いは君を弑し、国を奪ひ、下たる者は盗などをなす、大なる不義ある時は、善に遷らしめん為の争ひなり。汝は親に仁義の心有りて人を救ふを、我が不仁不義を以て、拒み争ふと云ふものなり。子としては親を善に導くべきを、反りて悪道へ陥れしむること有るべきや。汝の如く書を見なす者も、学問せし者と云はば、世の人、学問は不仁の本となりと思ふべし。然る時は、学問を廃る罪人なり。元来世間に、書を読むのみを学問と思ひ、書の心を知らざるゆへに、汝が如く見誤ること多し。総て経書は聖人の心なり。聖人の心も我が心も、
現代語訳
梅岩は答えました。「あなたも少しは学問をされたようで孝経を引かれましたが、すっかり本来の意味から外れています。『父に諫める子があれば、父は不義に陥らない』とおっしゃったのは、親が無道で欲や悪がひどく、主君を殺したり国を奪ったり、下の者なら盗みを働いたりするような、大きな不義があるときに、善に立ち返らせるための諫めのことです。あなたは、親が仁義の心から人を救おうとしているのを、自分の不仁不義によって拒み争っているのです。子としては親を善に導くべきなのに、かえって悪い道に落とすことがあってよいでしょうか。あなたのように書物を読む者まで学問をした者と呼ぶなら、世の人は学問は不仁の元だと思うでしょう。そうなれば、あなたは学問をすたれさせる罪人です。もともと世間では、書物を読むことだけを学問と思い、書物の心を知らないので、あなたのように読み誤ることが多いのです。すべて経書は聖人の心です。聖人の心も自分の心も、」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段一度我に疑ひ晴るることありて、後に味はふべき所なり。然るに今の世の人、文字に泥み、色々に作為するゆへに、昏々然と闇く、古人の心を知らざるゆへに、和漢ともに、文学他に勝れば、此れを徳と思ひ、我を伐る者多し。文学に伐る者を喩へて云はば、衆人の財宝をたくらべて、彼は劣れり、我は勝れりと伐るに同じ。学者に於ては、恥づべきことの第一なり。如何となれば、財宝も、かせぎ設けて吝くすれば溜る者なり。文字も其の如く、年を重ねて油断なく学べば、他より勝れる者なり。其の中に記憶能くして多く記すは、衆人の中に、仕合せ能く富めるが如し。又学者も、文字を読むのみにては、聖人の意味、神書の奥深き所知らるべきに非ず。然るに文字を滞りなく読めば、此の外も有るまじと思ふべきが、
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『驢鞍橋』卷下夜話の次、師問衆、何れも学文は詮無きことに思はるゝと見えたり。乍去その志は、先つ物知りと云はれ度もなし。又大地の住持役せんずでもなし又是に仍て成仏せんでもなし。只念仏申して菩提を勤めたるか、增しと思ふ計なるべし。但し又別の思はく有る人も有りや。時に一僧曰く、文字言句は道理に落ちて、胸中塞る間、万劫千生、胸の開ると云ふことあるべからずと存ず。又一僧曰く、仏法を余所に習ひ事に仕りし機、病と成る故に、今御教を承れとも、何としても余所仏法に成り、十分に聞得ぬ位有り、習ひ事の病と成ること慥に覚えて、いやに候也。
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『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、加様の類は、深く詮議せざることなれば、早速は返答なりがたし。答、此三言は、皆我心のことなるが、其を急々に返答ならずといはゞ、書を見ること多しといふとも、何の益あらん。論語の書は、皆聖人の心なるに、其心を知らずして、何を法として身を脩、人を教られ候や。