都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
曰、加樣ノ類ハ、深ク詮議セザルコトナレバ、早速ハ返答ナリガタシ、答、此三言ハ、皆我心ノコトナルガ、其ヲ急々ニ返答ナラズトイハヾ、書ヲ見ルコト多シトイフトモ、何ノ益アラン、論語ノ書ハ、皆聖人ノ心ナルニ、其心ヲ不知シテ、何ヲ法トシテ身ヲ脩、人ヲ敎ラレ候ヤ、
新字:曰、加様ノ類ハ、深ク詮議セザルコトナレバ、早速ハ返答ナリガタシ、答、此三言ハ、皆我心ノコトナルガ、其ヲ急々ニ返答ナラズトイハヾ、書ヲ見ルコト多シトイフトモ、何ノ益アラン、論語ノ書ハ、皆聖人ノ心ナルニ、其心ヲ不知シテ、何ヲ法トシテ身ヲ脩、人ヲ教ラレ候ヤ、
書き下し
曰く、加様の類は、深く詮議せざることなれば、早速は返答なりがたし。答、此三言は、皆我心のことなるが、其を急々に返答ならずといはゞ、書を見ること多しといふとも、何の益あらん。論語の書は、皆聖人の心なるに、其心を知らずして、何を法として身を脩、人を教られ候や。
現代語訳
問う人「このたぐいは深く吟味していないので、すぐには返答できません。」答え。「この三つの言葉は、みな自分の心のことです。それにすぐ返答できないというのなら、書物をたくさん読んだといっても何の益があるでしょう。論語という書はすべて聖人の心なのに、その心を知らないで、何を手本として身を修め、人を教えておられるのですか。」
解説
三つの言葉(無適無莫・在前忽焉在後・道は一のみ)は難しい古典の知識ではなく、どれも自分の心の働きについて言っている。だから即答できないのは読書量の問題ではなく、自分の心を見ていない証拠だ、と梅岩は言います。梅岩自身、商家に奉公しながら独学し、師の小栗了雲のもとで心を知る体験を得た人で、書物の量より心で確かめることを学問の芯に置きました。知識や資格を積んでも、自分の仕事の核心を自分の言葉で語れないなら、まだ身についていないという厳しい物差しです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
論語心学問読書手本
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第百條小程子曰く、学なる者は、人をして内に求めしむるなり。内に求めずして外に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか外と謂ふ、文を以て主と為す者、是れなり。学なる者は、人をして本に求めしむるなり。本に求めずして末に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか末と謂ふ、詳略を考へ、同異を採る者、是れなり。是の二者は、皆身に益無し、君子は学ばず、と。程子の此等の説は、陽明先生の精一の学と異なること無し。学者宜しく心を平らかにして以て之を見るべきなり。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
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『洗心洞箚記』卷上・第百十三條程朱没してより陽明先生に至るまで、其の間の学者は詞章文句の中に沈溺して、未だ嘗て能く頭を出さず、誠に憫むべし。先生起るに及びて、学者始めて天日を見るを得たり。故に顧端文公曰く、程朱没して記誦辞章の習熾んなり、天下をして自心自性の当に反りて求むべき有るを知らしむる所以の者は王文成なり、と。誠なるかな此の言や。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十二條陸子曰く、学者は須らく是れ田地を打畳して浄潔ならしめ、然る後に他をして奮発植立せしむべし。若し田地浄潔ならずんば、則ち奮発植立し得ず。古人の学を為すは即ち書を読む、然る後に学を為すこと見るべし。然れども田地浄潔ならずんば、亦書を読み得ず。若し書を読まば則ち是れ寇に兵を仮し、盗に糧を資するなり、と。又曰く、書を読むには固より文義を暁らざるべからず。然れども只だ文義を暁るを以て是と為さば、只だ是れ児童の学なり。須らく意旨の在る所を看るべし、と。
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『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。