都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
微塵ノ中ニモ、神ノ國アリトイハヾ、狭シテ博シト云フコトヲ見テ、一物一大極ノ疑ヒヲ解、他ノ書ヲ見テ解トイヘドモ、全儒ノ害ヲナスニアラズ、儒ヲ學ビシ道ヲ以テ、御神託ヲ拜スルニ、少モ疑シキコトモナシ、且佛老莊ノ敎モ、イハヾ心ヲミガク磨種ナレバ、舍ベキニモ非ズ、一度琢テ後ハ、佛老莊ヨリ、百家衆技ノ類ヲ寄聚メ見テモ、心ハ鏡ノ如シ、物來ルトキハ卽應ジ、物サルトキハ、卽靈々トシテ一物ヲ止ズ、此心ヲ得テ後ニ、聖人ノ敎ニ向バ、明鏡ニ對シテ、我形ヲ見ル如シ、天地萬物ノ上ヲ見ルモ、惟一理ニシテ、我掌ヲ見ルニ同ジ、皆我一體ナリ、日本紀云、天照太神手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰、吾兒視此寶鏡當猶視吾、可與同床共殿、
新字:微塵ノ中ニモ、神ノ国アリトイハヾ、狭シテ博シト云フコトヲ見テ、一物一大極ノ疑ヒヲ解、他ノ書ヲ見テ解トイヘドモ、全儒ノ害ヲナスニアラズ、儒ヲ学ビシ道ヲ以テ、御神託ヲ拝スルニ、少モ疑シキコトモナシ、且仏老荘ノ教モ、イハヾ心ヲミガク磨種ナレバ、舎ベキニモ非ズ、一度琢テ後ハ、仏老荘ヨリ、百家衆技ノ類ヲ寄聚メ見テモ、心ハ鏡ノ如シ、物来ルトキハ即応ジ、物サルトキハ、即霊々トシテ一物ヲ止ズ、此心ヲ得テ後ニ、聖人ノ教ニ向バ、明鏡ニ対シテ、我形ヲ見ル如シ、天地万物ノ上ヲ見ルモ、惟一理ニシテ、我掌ヲ見ルニ同ジ、皆我一体ナリ、日本紀云、天照太神手持宝鏡、授天忍穂耳尊而祝之曰、吾児視此宝鏡当猶視吾、可与同床共殿、
書き下し
微塵の中にも、神の国ありといはば、狭くして博しと云ふことを見て、一物一大極の疑ひを解く。他の書を見て解くといへども、全く儒の害をなすにあらず。儒を学びし道を以て、御神託を拝するに、少しも疑はしきこともなし。且つ仏老荘の教へも、いはば心をみがく磨ぎ種なれば、捨つべきにも非ず。一度琢きて後は、仏老荘より、百家衆技の類を寄せ聚め見ても、心は鏡の如し。物来たるときは即ち応じ、物去るときは、即ち霊々として一物を止めず。此の心を得て後に、聖人の教へに向かへば、明鏡に対して、我が形を見る如し。天地万物の上を見るも、惟一理にして、我が掌を見るに同じ、皆我が一体なり。日本紀に云ふ、天照太神手に宝鏡を持ちて、天忍穂耳尊に授けて祝ひて曰く、吾が児此の宝鏡を視まさんこと、当に猶ほ吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、
現代語訳
微塵の中にも神の国があると言えば狭くて広い、とあるのを見て、一物一太極の疑いが解けました。他の書を見て解けたとはいえ、まったく儒の害になるものではありません。儒を学んだ道によって神託を拝すると、少しも疑わしいところはありません。そのうえ仏・老子・荘子の教えも、いわば心を磨く磨き粉ですから、捨てるべきものでもありません。一度磨いた後は、仏・老荘から諸子百家や諸芸の類まで寄せ集めて見ても、心は鏡のようです。物が来ればすぐに応じ、物が去れば霊妙なままで何一つとどめません。この心を得た後に聖人の教えに向かえば、曇りない鏡に向かって自分の姿を見るようです。天地万物を見ても、ただ一つの理であって、自分の手のひらを見るのと同じで、みな自分と一体です。日本書紀に「天照大神が宝鏡を手に持ち、天忍穂耳尊に授けて祝福して言われた。わが子よ、この宝鏡を見ることは、まさに私を見るようにしなさい。床を同じくし御殿を共にして、
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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