都鄙問答 / 卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段
又問、然ラバ、汝モ心ヲ知テ敎ラレ候ヤ、其心ヲ知ト云ハ、如何ナルコトゾヤ、答、心ハ、言句ヲ以テ傳ラルヽ所ニアラズ、心ハ體ヲ以テ言者アリ、譬バ玉ノ鏡ノ如シ、四方上下ヲ照ス、程子所謂明鏡止水、是ナリ、又用ヲ以テ言者アリ、孟子所謂心ノ官ハ、思コトヲ司、飢テハ食ヲ思、渴ハ飮ヲ思フ、子曰、視思明、聽思聰、貌思恭、是ナリ、凡テ云ヘバ、聖人ハ、天地萬物ヲ以テ心トシ玉フ、口傳ニテ知ラルヽ所ニアラズ、我ニ於テ會得スル所ナリ、蒸民ノ詩曰、有物有則ト、父子間ニテ云ハヾ、父ノ慈愛有ハ父ノ心、子ノ孝行有ハ子ノ心、萬事ニワタリテ如此、是ハ聞ヘ易ガ如シ、然レドモ一度決定シ、疑晴ルコトナキトキハ、正ク聞得ルコトアタハズ、
新字:又問、然ラバ、汝モ心ヲ知テ教ラレ候ヤ、其心ヲ知ト云ハ、如何ナルコトゾヤ、答、心ハ、言句ヲ以テ伝ラルヽ所ニアラズ、心ハ体ヲ以テ言者アリ、譬バ玉ノ鏡ノ如シ、四方上下ヲ照ス、程子所謂明鏡止水、是ナリ、又用ヲ以テ言者アリ、孟子所謂心ノ官ハ、思コトヲ司、飢テハ食ヲ思、渇ハ飲ヲ思フ、子曰、視思明、聴思聰、貌思恭、是ナリ、凡テ云ヘバ、聖人ハ、天地万物ヲ以テ心トシ玉フ、口伝ニテ知ラルヽ所ニアラズ、我ニ於テ会得スル所ナリ、蒸民ノ詩曰、有物有則ト、父子間ニテ云ハヾ、父ノ慈愛有ハ父ノ心、子ノ孝行有ハ子ノ心、万事ニワタリテ如此、是ハ聞ヘ易ガ如シ、然レドモ一度決定シ、疑晴ルコトナキトキハ、正ク聞得ルコトアタハズ、
書き下し
又問、然らば、汝も心を知て教られ候や。其心を知と云は、如何なることぞや。答、心は、言句を以て伝らるゝ所にあらず。心は体を以て言者あり、譬ば玉の鏡の如し、四方上下を照す。程子所謂明鏡止水、是なり。又用を以て言者あり、孟子所謂心の官は、思ことを司、飢ては食を思、渇は飲を思ふ。子曰、視思明、聴思聡、貌思恭、是なり。凡て云へば、聖人は、天地万物を以て心とし玉ふ。口伝にて知らるゝ所にあらず。我に於て会得する所なり。蒸民の詩曰、有物有則と。父子間にて云はゞ、父の慈愛有は父の心、子の孝行有は子の心、万事にわたりて如此、是は聞へ易が如し。然れども一度決定し、疑晴ることなきときは、正く聞得ることあたはず。
現代語訳
父親はまた尋ねました。「それなら、あなたも心を知って教えておられるのですか。心を知るとはどういうことですか。」梅岩「心は言葉で伝えられるものではありません。心には本体として言う面があり、たとえば玉の鏡のように四方上下を照らします。程子の言う明鏡止水がこれです。また働きとして言う面があり、孟子の言う『心の官は思うことを司る』で、飢えれば食を思い、渇けば飲むことを思います。孔子の言う『視るには明を思い、聴くには聡を思い、貌には恭を思う』がこれです。まとめて言えば、聖人は天地万物を心とされます。口伝えで知ることはできず、自分で会得するものです。『詩経』蒸民の詩に『物有れば則有り』とあります。親子の間で言えば、父に慈愛があるのが父の心、子に孝行があるのが子の心で、万事にわたってこのようです。これは分かりやすいようですが、一度しっかり決定して疑いが晴れるのでなければ、正しく聞き取ることはできません。」
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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