都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
答、我思フハ左ニハ非ズ、佛者ニハ少ナルベシ、儒者ニハ數モ多カルベシ、儒者トイフハ、學者ノコトナレ共、儒ハ濡ニテ、身ヲ濡ト云コトナレバ、此身ニテ滿足シタル者ヲ、儒者トイフベシ、孟子曰、人々己ニ貴キ者アリ、己ニ貴ハ心ナリ、心ヲ得テ滿足シ、身ヲ濡者ハ儒者ナリ、何ホドニ出家多シトイフトモ、俗人ノ十分ノ一ニモ及バズ、人數少キユヘニ、悟道ノ人罕ナルベシ、俗ハ數萬ノコトナレバ、身ヲ濡ス人モ多カラン、
新字:答、我思フハ左ニハ非ズ、仏者ニハ少ナルベシ、儒者ニハ数モ多カルベシ、儒者トイフハ、学者ノコトナレ共、儒ハ濡ニテ、身ヲ濡ト云コトナレバ、此身ニテ満足シタル者ヲ、儒者トイフベシ、孟子曰、人々己ニ貴キ者アリ、己ニ貴ハ心ナリ、心ヲ得テ満足シ、身ヲ濡者ハ儒者ナリ、何ホドニ出家多シトイフトモ、俗人ノ十分ノ一ニモ及バズ、人数少キユヘニ、悟道ノ人罕ナルベシ、俗ハ数万ノコトナレバ、身ヲ濡ス人モ多カラン、
書き下し
答ふ、我が思ふは左には非ず。仏者には少なるべし、儒者には数も多かるべし。儒者といふは、学者のことなれども、儒は濡にて、身を濡すと云ふことなれば、此の身にて満足したる者を、儒者といふべし。孟子曰く、人々己に貴き者あり。己に貴きは心なり。心を得て満足し、身を濡す者は儒者なり。何ほどに出家多しといふとも、俗人の十分の一にも及ばず、人数少なきゆゑに、悟道の人罕なるべし。俗は数万のことなれば、身を濡す人も多からん。
現代語訳
梅岩は答えます。私の考えはそうではありません。心を悟る人は、仏者のほうが少なく、儒者のほうが数は多いはずです。儒者とは学者のことですが、「儒」は「濡(うるおす)」に通じ、身をうるおすという意味ですから、自分の身のうちで満ち足りている者を儒者と呼ぶべきです。孟子は「人はそれぞれ自分の内に貴いものを持っている」と言いました。その貴いものとは心です。心を得て満ち足り、身をうるおしている者が儒者です。出家がどれほど多くても俗人の十分の一にも及ばず、人数が少ないので悟った人はまれでしょう。俗人は何万といるのですから、身をうるおす人も多いはずです。
解説

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