都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
又問、儒者ヨリ、佛法ヲ異端ト云テ嫌フハ、イカナル違ヒ有コトニ候ヤ、答、異端トハ、端ヲ異ストイフコトナリ、儒ニハ、仁義禮智信ノ五常、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友ノ五倫トヲ、天ノ道トシ、天人一致トス、佛家ニハ、五常五倫ノ道ヲ不立、此儒ト歸ヲ不同、因テ異端ト云、假令儒者ニテ儒經ヲ說トモ、我心ヲ不知、聖人ノ心ニ不通、我私心ヲ以テ敎ヲ立レバ、私心ハ直ニ異端ナリ、然レドモ聖人ノ弟子ニ似タレバ、押出シ異端トハイハズ、不言トモ異端ノ方ニ近キ者ナリ、時節至テ心ヲ知レバ、我儒ト一致トナル、扠儒佛ノ二道ヲ、枝葉ニカヽリ論ゼバ、事多クシテ分レ難シ、互ニ根本ノ所ハ、性理ヲ會得スルヲ要トス、先佛氏ニテイハヾ、
新字:又問、儒者ヨリ、仏法ヲ異端ト云テ嫌フハ、イカナル違ヒ有コトニ候ヤ、答、異端トハ、端ヲ異ストイフコトナリ、儒ニハ、仁義礼智信ノ五常、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友ノ五倫トヲ、天ノ道トシ、天人一致トス、仏家ニハ、五常五倫ノ道ヲ不立、此儒ト帰ヲ不同、因テ異端ト云、仮令儒者ニテ儒経ヲ説トモ、我心ヲ不知、聖人ノ心ニ不通、我私心ヲ以テ教ヲ立レバ、私心ハ直ニ異端ナリ、然レドモ聖人ノ弟子ニ似タレバ、押出シ異端トハイハズ、不言トモ異端ノ方ニ近キ者ナリ、時節至テ心ヲ知レバ、我儒ト一致トナル、扠儒仏ノ二道ヲ、枝葉ニカヽリ論ゼバ、事多クシテ分レ難シ、互ニ根本ノ所ハ、性理ヲ会得スルヲ要トス、先仏氏ニテイハヾ、
書き下し
又問ふ、儒者より、仏法を異端と云ひて嫌ふは、いかなる違ひ有ることに候や。答ふ、異端とは、端を異にすといふことなり。儒には、仁義礼智信の五常、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五倫とを、天の道とし、天人一致とす。仏家には、五常五倫の道を立てず、此れ儒と帰を同じくせず、因りて異端と云ふ。仮令儒者にて儒経を説くとも、我が心を知らず、聖人の心に通ぜず、我が私心を以て教へを立つれば、私心は直に異端なり。然れども聖人の弟子に似たれば、押し出だし異端とはいはず、言はずとも異端の方に近き者なり。時節至りて心を知れば、我が儒と一致となる。扨儒仏の二道を、枝葉にかかり論ぜば、事多くして分かれ難し。互ひに根本の所は、性理を会得するを要とす。先づ仏氏にていはば、
現代語訳
また問います。儒者が仏法を異端と言って嫌うのは、どういう違いがあるからですか。梅岩は答えます。異端とは端を異にするということです。儒では仁義礼智信の五常と、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五倫を天の道とし、天と人を一致したものとします。仏家は五常五倫の道を立てないので、儒と行き着く先が同じでない。それで異端と言うのです。たとえ儒者で儒の経典を説いていても、自分の心を知らず、聖人の心に通じず、私心で教えを立てれば、その私心はそのまま異端です。ただ聖人の弟子に見えるので、表立って異端とは言わないが、言わなくても異端に近い者です。時が来て心を知れば、儒と一致します。儒と仏の二つの道を枝葉で論じれば、事が多くて分けにくい。どちらも根本は、本性の理を会得することが肝要です。まず仏家で言えば、
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段かくの如きは渺然として主とする所なきに似たり。然れども聖人、理を窮め給へば、義有りて存せり。喩へば雪中に梅の香を知るが如し。形見えずして明らかなり。然れば聖人の心は、天道に至り給ひ、天地あらん限りは在し給ふ。聖人没し給ふに、心ばかり残れること如何と思ふべきが、世に在す時も、心は天道なり。詩に曰く、文王上に在して、天に昭らかなりといへり。此の心を知らば、徳行は至らずとも、儒者ともいふべきが、其の心を知らざる者を、聖人の弟子とはいふべからず。扨儒仏共に、理の所は近うして分かれがたし。又行ひの上は、見えたる通りに、雲泥の違ひあり。出家は五戒を有ち、俗は五倫の道を行ふ。是又まぎるることはなし。其の出家の真似を、俗がするに因りて、流れに費え有り。唐土にも、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、孔子の道は、五倫五常の外はなし。何ぞ疑ひあらん。答、汝は一のみの一を知らねば、道を知らず。孔子曰く、人能く道を弘む、道人を弘むるに非ずと。心能く性を尽し、人能く道を弘む。人の外に道無く、道の外に人無し。人の心は覚ることあり、此を以て道を弘む。覚る心は体なり、人の大倫は用なり。体立て用行る。其用は、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の交りなり。仁義礼智の良心は、其五倫を行する心なり。汝は此心の一なることを知らず。
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『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段曰、知らざるにはあらず。如何と云に、仏法は先五戒を有を第一とす。其中に殺生戒を重き戒とす。儒家にて云ば、五常の仁の如し。儒家に於て、仁を害者を善とすることありや。汝は儒を説といへども、いまだ仁の意を知らざれば、聖賢の本意に闇し。
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段曰く、否、猶大事あり。三重病人と生るゝことは、過去の因縁なり。此を助くる伝あり。三世を摂ねて救ふことは儒道にはなきにあらずや。答ふ、左様の教は、伝へ来ることなし。天地の間に生るゝ者は、天を父とし、地を母とし、自ら生ず。朱子曰く、天より生民を降すより、則ち既に之に与ふるに仁義礼智の性を以てせざること莫し。然れども其の気質の禀くること、或は斉しきこと能はずと。今日、人に生れたる者は、五常五倫の教あり。君臣の義、父子の親、夫婦の別、兄弟の序、朋友の信、これを能く行ひ、仁義礼智の性を全うし、天命に至らしむる教なり。草木は、天にたがはざるに因りて、教は入らず。人は喜怒哀楽の情に因りて、天命にそむく。故に教をなして、人の道に入れしむ。固より唖なればいはず、聾なれば聞かず、盲なれば見ず。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段天下の民、尽く孝弟を行ふゆゑに、及ぶ所広大にして、利益ある所なり。事を以て論ぜば、仏氏たる人、罪咎ある者なればとて、死罪に行ふべきや。罪咎ある者にても、弟子にせんと云ひて、上よりもらひ、助けたく思ふは出家なり。慈愛の心ばかりにて、聖人の法なくして政道を行はば、反つて事の乱れとならん。武帝の如き君あらば、異端と譏るも宜なる哉。曰く、手前には、儒道にて身を修むる志なれば、我が為に問ふにはあらず。然れども、上より下に至るまで、仏法を信仰のことなり。雑ふる時に害あることならば、上には用ひ給はざる筈なり。如何なることぞや。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、汝がいへる如くならば、心を得る為めには、仏法を雑へ用ふるも、然るべきと聞こゆ。然れども、仏法は我が業にあらざれば、同じくは儒にて知り得たく候。仏法を除き得ることは、なしがたきことにて候や。答ふ、孟子曰く、惻隠の心無きは人に非ず、羞悪の心無きは人に非ずと。汝最前より、心を得ざるを苦しんで赤面し、不善を恥づるは、即ち羞悪の心なり。其の羞悪の心を推して知らば、仁義の良心に至るべし。何ぞ仏法によることあらん。我が心を得れば、儒仏の名を離れたるものなり。譬へば此に一人の鏡磨ぐ者あらん。上手ならば、鏡を磨ぎに遣はすべし、磨ぎ種になにを用ふと問ふべきや。儒仏の法を用ふるもかくの如し、我が心を琢く磨ぎ種なり。琢きて後に、磨ぎ種に泥むこそをかしけれ。縦ひ儒家にて学ぶといふとも、