都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
如斯ハ渺然トシテ主トスル所ナキニ似タリ、然レドモ聖人、理ヲ窮メ玉ヘバ、義有テ存セリ、喩バ雪中ニ梅ノ香ヲ知ルガ如シ、形見ズシテ而明カナリ、然レバ聖人ノ心ハ、天道ニ至リ玉ヒ、天地アラン限リハ在シ玉フ、聖人沒シ玉フニ、心バカリ殘レルコト如何ト可思ガ、世ニ在ス時モ、心ハ天道ナリ、詩曰、文王在於上昭于天トイヘリ、此心ヲ知ラバ、德行ハ至ラズトモ、儒者トモイフベキガ、其心ヲ不知者ヲ、聖人ノ弟子トハイフベカラズ、扠儒佛共ニ、理ノ所ハ近フシテ分レガタシ、又行ヒノ上ハ、見ヘタル通リニ、雲泥ノ違アリ、出家ハ五戒ヲ有俗ハ五倫ノ道ヲ行フ、是又マギルヽコトハナシ、其出家ノ眞似ヲ、俗ガスルニ因テ、流ニ費有リ、唐土ニモ、
新字:如斯ハ渺然トシテ主トスル所ナキニ似タリ、然レドモ聖人、理ヲ窮メ玉ヘバ、義有テ存セリ、喩バ雪中ニ梅ノ香ヲ知ルガ如シ、形見ズシテ而明カナリ、然レバ聖人ノ心ハ、天道ニ至リ玉ヒ、天地アラン限リハ在シ玉フ、聖人没シ玉フニ、心バカリ残レルコト如何ト可思ガ、世ニ在ス時モ、心ハ天道ナリ、詩曰、文王在於上昭于天トイヘリ、此心ヲ知ラバ、徳行ハ至ラズトモ、儒者トモイフベキガ、其心ヲ不知者ヲ、聖人ノ弟子トハイフベカラズ、扠儒仏共ニ、理ノ所ハ近フシテ分レガタシ、又行ヒノ上ハ、見ヘタル通リニ、雲泥ノ違アリ、出家ハ五戒ヲ有俗ハ五倫ノ道ヲ行フ、是又マギルヽコトハナシ、其出家ノ真似ヲ、俗ガスルニ因テ、流ニ費有リ、唐土ニモ、
書き下し
かくの如きは渺然として主とする所なきに似たり。然れども聖人、理を窮め給へば、義有りて存せり。喩へば雪中に梅の香を知るが如し。形見えずして明らかなり。然れば聖人の心は、天道に至り給ひ、天地あらん限りは在し給ふ。聖人没し給ふに、心ばかり残れること如何と思ふべきが、世に在す時も、心は天道なり。詩に曰く、文王上に在して、天に昭らかなりといへり。此の心を知らば、徳行は至らずとも、儒者ともいふべきが、其の心を知らざる者を、聖人の弟子とはいふべからず。扨儒仏共に、理の所は近うして分かれがたし。又行ひの上は、見えたる通りに、雲泥の違ひあり。出家は五戒を有ち、俗は五倫の道を行ふ。是又まぎるることはなし。其の出家の真似を、俗がするに因りて、流れに費え有り。唐土にも、
現代語訳
このようなことは、果てしなくとらえどころがないように見えます。けれども聖人は理を窮められたので、そこに義があって存在しています。たとえば雪の中で梅の香に気づくようなもので、形は見えなくてもはっきりしています。聖人の心は天の道に至り、天地がある限り存在されます。聖人が亡くなって心だけが残るとはどういうことかと思うでしょうが、生きておられた時も心は天の道でした。詩経に「文王は上にいまして、天に明らかである」とあります。この心を知れば、行いが十分でなくても儒者と言えるでしょうが、その心を知らない者を聖人の弟子と言うことはできません。さて儒と仏は、理のところは近くて分けにくい。けれども行いの上では、見ての通り雲泥の違いがあります。出家は五戒を守り、俗人は五倫の道を行う。これは紛れることがありません。その出家の真似を俗人がするので、世の流れに無駄が生じるのです。中国でも、
解説

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