都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
向フ物ヲ移シ曲ザルハ、明鏡止水ノ如シ、人タル者、元來心ハ替ラザレドモ、七情ニ蔽昧サレテ、聖人ノ知ヲ、外ニ替リタルコトアルヤウニ思フヨリ、味クナツテ、種種ニ疑ヒ發ルナリ、元來形アル者ハ、形ヲ直ニ心トモ可知、譬夜寢入タルトキ、寢掻シ、ヲボヘズ形ヲ相ク、是形直ニ心ナル所ナリ、又子々水中ニ有テハ、人ヲ螫ズ、蚊ト變ジテ忽ニ人ヲ螫、コレ形ニ由ノ心ナリ、鳥類畜類ノ上ニモ、心ヲツケテ見ヨ、蛙ハ自然ニ蛇ヲ恐ル、親蛙ガ子蛙ニ、蛇ハ汝ヲトリ食フ畏シキモノゾト敎ヘ、蛙子モ學ビ習テ、段々ニ傳ヘ來リシ者ナランヤ、蛙ノ形ニ生レバ、蛇ヲ恐ルヽハ、形ガ直ニ心ナル所ナリ、其外近ク見ント思ハヾ、蚤ハ夏ニ至レバ、
新字:向フ物ヲ移シ曲ザルハ、明鏡止水ノ如シ、人タル者、元来心ハ替ラザレドモ、七情ニ蔽昧サレテ、聖人ノ知ヲ、外ニ替リタルコトアルヤウニ思フヨリ、味クナツテ、種種ニ疑ヒ発ルナリ、元来形アル者ハ、形ヲ直ニ心トモ可知、譬夜寝入タルトキ、寝掻シ、ヲボヘズ形ヲ相ク、是形直ニ心ナル所ナリ、又子々水中ニ有テハ、人ヲ螫ズ、蚊ト変ジテ忽ニ人ヲ螫、コレ形ニ由ノ心ナリ、鳥類畜類ノ上ニモ、心ヲツケテ見ヨ、蛙ハ自然ニ蛇ヲ恐ル、親蛙ガ子蛙ニ、蛇ハ汝ヲトリ食フ畏シキモノゾト教ヘ、蛙子モ学ビ習テ、段々ニ伝ヘ来リシ者ナランヤ、蛙ノ形ニ生レバ、蛇ヲ恐ルヽハ、形ガ直ニ心ナル所ナリ、其外近ク見ント思ハヾ、蚤ハ夏ニ至レバ、
書き下し
向かふ物を移し曲げざるは、明鏡止水の如し。人たる者、元来心は替らざれども、七情に蔽昧されて、聖人の知を、外に替りたることあるやうに思ふより、味くなつて、種々に疑ひ発るなり。元来形ある者は、形を直に心とも知るべし。譬へば夜寝入りたるとき、寝掻きし、おぼえず形を相く。是れ形直に心なる所なり。又子々水中に有りては、人を螫さず、蚊と変じて忽ちに人を螫す。これ形に由るの心なり。鳥類畜類の上にも、心をつけて見よ。蛙は自然に蛇を恐る。親蛙が子蛙に、蛇は汝をとり食ふ畏しきものぞと教へ、蛙子も学び習ひて、段々に伝へ来たりし者ならんや。蛙の形に生るれば、蛇を恐るるは、形が直に心なる所なり。其の外近く見んと思はば、蚤は夏に至れば、
現代語訳
向き合う物をゆがめずに映すのは、曇りない鏡や静かな水のようです。人の心はもともと聖人と変わらないのに、喜怒哀楽などの感情に覆われて暗くなり、聖人の知を何か特別なものと思うので、いろいろな疑いが起こるのです。そもそも形のある者は、その形がそのまま心だと知るべきです。たとえば夜眠っているとき、寝ながら掻いて、知らずに体を掻いている。これが形がそのまま心であるところです。またボウフラ(子々)は水中にいるうちは人を刺さないが、蚊に変わるとたちまち人を刺す。これが形による心です。鳥や獣の上にも目を向けてごらんなさい。蛙は自然に蛇を恐れます。親蛙が子蛙に、蛇はお前を取って食う恐ろしいものだと教え、子蛙が学んで代々伝えてきたのでしょうか。蛙の形に生まれれば蛇を恐れる。これが形がそのまま心であるところです。ほかに身近な例を見れば、蚤は夏になると、
解説

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関連する章句
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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。