茶の本 / 第六章 花・変化こそは唯一の永遠である
しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁(三三)。」弘法大師いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し(三四)。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵(三五)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。
書き下し
しかし、あまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁」。弘法大師いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」。われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。
現代語訳
しかしあまりに感傷的になるのはやめましょう。奢ることをより戒めて、もっと壮大な気持ちになろうではありませんか。老子は言いました、天地は仁ならずと。弘法大師は言いました、生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥いと。私たちはどちらを向いても破壊に面しています。上を向いても破壊、下を向いても破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそが唯一の永遠です。なぜ死を生と同じように喜んで迎えないのでしょうか。この二つはただ互いに向かい合っているもので、梵の昼と夜です。古いものが崩れることによって作り直しが可能になります。私たちは無情で慈悲深い神である死を、さまざまな名前で崇めてきました。
解説
この章句が説くこと
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