武士道 / 第二章 武士道の淵源・仏教の与えたるもの
武士道の淵源を繹ぬるに當り、予は先づ佛教を擧ぐべし。佛教は武士道に供するに、安心立命の志氣、從容として運命の免るべからざるに服するの心念、危難災厄に臨みて、ストイツク的なる沈着不情操及び生を輕んじ、死を甘んずるの意氣を以てせり。柳生但馬なりし乎、彼が劍道の門弟たる三代將軍の、斯道の奥義を極めたるを見て、唯だ此上は禪を學び給へと申せし昔話もあり。禪とは梵語のドヤナにて、小泉八雲氏は之を說明して、『冥想沈思の自力を以てして、言語文字を超脫せる思索界に轉迷開悟するの法なりはと曰へり。禪の形式は思索なり、開悟なり。其理たる予の曉解し得たる所を以て云へば、宇宙の森羅萬象裡に伏在せる大秘義を覺悟し、其極意に到着せば、即ち能く絕對存在者を認識し、而して終に人間と絕對存在者とを調和せしむるものなりと。
新字:武士道の淵源を繹ぬるに当り、予は先づ仏教を挙ぐべし。仏教は武士道に供するに、安心立命の志気、従容として運命の免るべからざるに服するの心念、危難災厄に臨みて、ストイツク的なる沈着不情操及び生を軽んじ、死を甘んずるの意気を以てせり。柳生但馬なりし乎、彼が剣道の門弟たる三代将軍の、斯道の奥義を極めたるを見て、唯だ此上は禅を学び給へと申せし昔話もあり。禅とは梵語のドヤナにて、小泉八雲氏は之を説明して、『冥想沈思の自力を以てして、言語文字を超脱せる思索界に転迷開悟するの法なりはと曰へり。禅の形式は思索なり、開悟なり。其理たる予の暁解し得たる所を以て云へば、宇宙の森羅万象裡に伏在せる大秘義を覚悟し、其極意に到着せば、即ち能く絶対存在者を認識し、而して終に人間と絶対存在者とを調和せしむるものなりと。
書き下し
武士道の淵源を繹ぬるに当り、予は先づ仏教を挙ぐべし。仏教は武士道に供するに、安心立命の志気、従容として運命の免るべからざるに服するの心念、危難災厄に臨みて、ストイック的なる沈着の情操、及び生を軽んじ、死を甘んずるの意気を以てせり。柳生但馬なりしか、彼が剣道の門弟たる三代将軍の、斯道の奥義を極めたるを見て、唯だ此上は禅を学び給へと申せし昔話もあり。禅とは梵語のディヤーナにて、小泉八雲氏は之を説明して、『冥想沈思の自力を以てして、言語文字を超脱せる思索界に転迷開悟するの法なり』と曰へり。禅の形式は思索なり、開悟なり。其理たる、予の暁解し得たる所を以て云へば、宇宙の森羅万象裡に伏在せる大秘義を覚悟し、其極意に到着せば、即ち能く絶対存在者を認識し、而して終に人間と絶対存在者とを調和せしむるものなりと。
現代語訳
武士道の源をたどるにあたって、私はまず仏教を挙げるべきです。仏教は武士道に、心を安らかに定める気概、運命の避けがたさに落ち着いて従う心、危難や災厄に臨んでのストイックな沈着さ、そして生を軽んじ死を甘んじて受ける意気を与えました。柳生但馬だったでしょうか、剣道の門弟である三代将軍がこの道の奥義を極めたのを見て、あとはただ禅を学びなさいと申したという昔話もあります。禅とはサンスクリットのディヤーナで、小泉八雲氏はこれを説明して、瞑想と沈思の自力によって、言葉や文字を超えた思索の世界で迷いから覚めに転じる法である、と言いました。禅の形式は思索であり、開悟です。その理は、私が理解し得たところで言えば、宇宙の万物の中に潜む大きな秘義を悟り、その極意に到達すれば、絶対存在者を認識でき、ついには人間と絶対存在者を調和させるものである、と。
解説

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