呻吟語 / 外篇・廣喻・死生は只だ滴分に系かる
一滴多於一斝,一分長似一尋,誰謂細微可忽?死生只系滴分。
書き下し
一滴は一斝より多く、一分は一尋より長し。誰か細微忽せにす可しと謂はん。死生は只だ滴分に系かる。
現代語訳
一滴が一杯より多く、一分が一尋より長いことがあります。誰が細かなものを忽せにしてよいと言うでしょうか。死ぬか生きるかは、その一滴と一分に懸かっています。
解説
一滴が一杯より多いという逆説から始めます。足りるか足りないかの境目では、最後の一滴が全体を決めるからです。同じく最後の一分が届くかどうかで長さが決まります。だから細かなものを軽んじられません。そして死生が懸かるとまで言われます。量の大小ではなく、境目に立つかどうかが問題になっています。量の大小ではなく、境目に立つかが問題になります。
この章句が説くこと
一滴境目細微死生決め手
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