都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
天地ハ照々ト明ナリ、何ゾ力ヲ用ユルコトアラン、力ヲ不用行ルヽユヘニ、安樂ニシテ然モ明カナリ、是故ニ天地ノ靈トナル、此ヲ不知、昏々トクラフシテ、私知ヲ以テ苦ハ、告子ガ說ナリ、孟子ハ性理ニ明カナルユヘニ、積義浩然ノ氣ヲ養ヒ、至大至剛ニシテ、天地ニ充ノ德ニ至リ玉フ、告子ハ此理ヲ不知、己ガ私知ヲ以テ、定テ此筋ニテアラント思フテハ問、又決定ナキ所ヨリ、品ヲ變テ問ユヘニ、論義ノ度々ニ變ルナリ、吾ニ決斷シテ云コトバハ、變ザル者ナリ、然ルニ告子ハ、不得於言勿求於心ト云、於言有所不言、其言ヲ舍置ベシ、其理ヲ心ニ反シ求ルハ惡ト云心ニ求ルコトヲ嫌ヒナバ、何ノ世ニカハ覺ル所アランヤ、今日一事ノ輕コトサヘ、
新字:天地ハ照々ト明ナリ、何ゾ力ヲ用ユルコトアラン、力ヲ不用行ルヽユヘニ、安楽ニシテ然モ明カナリ、是故ニ天地ノ霊トナル、此ヲ不知、昏々トクラフシテ、私知ヲ以テ苦ハ、告子ガ説ナリ、孟子ハ性理ニ明カナルユヘニ、積義浩然ノ気ヲ養ヒ、至大至剛ニシテ、天地ニ充ノ徳ニ至リ玉フ、告子ハ此理ヲ不知、己ガ私知ヲ以テ、定テ此筋ニテアラント思フテハ問、又決定ナキ所ヨリ、品ヲ変テ問ユヘニ、論義ノ度々ニ変ルナリ、吾ニ決断シテ云コトバハ、変ザル者ナリ、然ルニ告子ハ、不得於言勿求於心ト云、於言有所不言、其言ヲ舎置ベシ、其理ヲ心ニ反シ求ルハ悪ト云心ニ求ルコトヲ嫌ヒナバ、何ノ世ニカハ覚ル所アランヤ、今日一事ノ軽コトサヘ、
書き下し
天地は照々と明なり。何ぞ力を用ゆることあらん。力を用ひず行るゝゆへに、安楽にして然も明かなり。是故に天地の霊となる。此を知らず、昏々とくらふして、私知を以て苦は、告子が説なり。孟子は性理に明かなるゆへに、義を積み浩然の気を養ひ、至大至剛にして、天地に充の徳に至り玉ふ。告子は此理を知らず、己が私知を以て、定て此筋にてあらんと思ふては問、又決定なき所より、品を変て問ゆへに、論義の度々に変るなり。吾に決断して云ことばは、変ざる者なり。然るに告子は、言に得ざれば心に求むること勿れと云。言に言はざる所有らば、其言を舎置べし、其理を心に反し求るは悪と云。心に求ることを嫌ひなば、何の世にかは覚る所あらんや。今日一事の軽ことさへ、
現代語訳
天地は照り輝いて明らかです。どうして力を用いることがありましょう。力を用いずに行われるので、安楽で、しかも明らかです。だから天地の霊妙なはたらきとなるのです。これを知らず、暗がりの中で私知によって苦しむのが告子の説です。孟子は性理に明らかだったので、義を積んで浩然の気を養い、この上なく大きく強く、天地に満ちる徳に至られました。告子はこの理を知らず、自分の私知で、きっとこの筋だろうと思っては問い、また確信のないところから言い方を変えて問うので、議論のたびに言うことが変わるのです。自分の中で決着して言う言葉は変わらないものです。ところが告子は『言葉で分からなければ、心に求めてはならない』と言い、言葉にならないところがあれば、その言葉は捨て置け、その理を心に振り返って求めるのは悪いことだと言います。心に求めることを嫌っていたら、いつの世に悟るところがあるでしょう。今日一つの軽い事柄でさえ、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段心を尽して知るにあらずや。且告子が湍水のたとへにて、明かに知るべし。告子が思やうは、心は種々の思ひを生ずれども、何をと云て取るべきやうなければ、性は、水の流て、淵にぐるぐる洄ごとき者と思へり。夫天は、忽寒暑雲霧風雨を生じ、平旦清明の気より、仁義礼智の良心を生ずることを知らず、色々品々に、穿鑿し思慮するゆへに、只紙一重ほどの違も、天地懸隔と、はるかなるへだたりとなる。譬ば犬の己が尾を食んとすれば、身の回に随て尾も巡るゆへ、喰ひつくこと能はず。告子も色々思慮するゆへに、性善に及ぶこと能はず。惜しい哉哀しい哉。孟子は知を用ひず、義を行ひ玉ふに因て、平旦清明の気を養ふことを得玉ふ。然れども独得る所にして、形容しがたきを以て、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段言ひ難しとの玉ふ。程子曰く、此の一言を観れば、則ち孟子の実に是の気有ること知るべしと。又程子の此一言を観れば、程子も、此気を養へること明なり。知音の人は是を知るべし。性善を会得すれば、気も亦清明にして、仁義の良心を発す。常に仁義の良心起らば、人事は此に越ることあらんや。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性理は第一の事とは思へり。然れども、兔角聞得ることかたし。雲泥の違ある告子が非を得心せば、孟子を是としらるべきや。答、孟子の性善を得れば、白昼に黒白を分る如し。他の非は、聞ずして明に分るなり。何ぞ非を知ることあらん。性善を知れば、定木を以て曲直を正すが如し。孟子の性善との玉ふは、心を尽して性を知り、性を知る時は天を知る。天を知るを学問の初めとす。天を知れば、事理自明白なり。此を以て私なく公にして、日月の普照し玉ふがごとし。告子がいへる所は、生れながらの性を見失ひ、私知を用ゆれば、白昼に日輪の光をからずして、戸を閉て灯火を用ゆるが如し。照す所如斯違あるなり。因て雲泥の違と云。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、孟子の性善と、告子が、性に善無く不善無しと云は、同じかるべし。如何となれば、善無く不善無き所は、空々寂々としたる所なり。孟子は、其空々寂々たる所に、名を蒙らしめて、性善といへり。告子はありのまゝに、善無く不善無しと云。辞に替りはあれども、実は虚名なり。夫に孟子は是とし、告子は非とするは、如何なることぞ。