都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
曰、孟子ノ性善ト、告子ガ、性ニ無善無不善ト云ハ、同ジカルベシ、如何トナレバ、無善不善所ハ、空々寂々トシタル所ナリ、孟子ハ、其空々寂々タル所ニ、名ヲ蒙ラシメテ、性善トイヘリ、告子ハアリノマヽニ、無善無不善云、辭ニ替リハアレドモ、實ハ虛名ナリ、夫ニ孟子ハ是トシ、告子ハ非トスルハ、如何ナルコトゾ、
新字:曰、孟子ノ性善ト、告子ガ、性ニ無善無不善ト云ハ、同ジカルベシ、如何トナレバ、無善不善所ハ、空々寂々トシタル所ナリ、孟子ハ、其空々寂々タル所ニ、名ヲ蒙ラシメテ、性善トイヘリ、告子ハアリノマヽニ、無善無不善云、辞ニ替リハアレドモ、実ハ虚名ナリ、夫ニ孟子ハ是トシ、告子ハ非トスルハ、如何ナルコトゾ、
書き下し
曰く、孟子の性善と、告子が、性に善無く不善無しと云は、同じかるべし。如何となれば、善無く不善無き所は、空々寂々としたる所なり。孟子は、其空々寂々たる所に、名を蒙らしめて、性善といへり。告子はありのまゝに、善無く不善無しと云。辞に替りはあれども、実は虚名なり。夫に孟子は是とし、告子は非とするは、如何なることぞ。
現代語訳
問う人「孟子の性善と、告子の『性には善も不善もない』というのは同じでしょう。なぜなら、善も不善もないところとは、空々寂々とした何もないところです。孟子はその空々寂々としたところに名前をかぶせて性善と言いました。告子はありのままに、善も不善もないと言いました。言葉に違いはあっても、実は名ばかりです。それなのに孟子を正しいとし、告子を誤りとするのはどういうことですか。」
解説
問う学者は鋭い反論を出します。梅岩の言う性善が善悪を超えたものなら、告子の「性は善無く不善無し」(『孟子』告子上篇)と同じではないか。孟子は名前を付けただけで、中身は空っぽではないか、と。善悪を超えたものを「善」と呼ぶのは言葉の遊びではないかという、哲学的にも筋の通った問いです。似て見える二つの立場の違いを梅岩がどこで線引きするかが、次の段の焦点になります。同じ結論に見える意見がどこで分かれるかを見極める練習にもなる一節です。
この章句が説くこと
告子性善空名目違い
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段或学者問ひて曰く、大聖孔子は、三綱五常の道を説、性理の沙汰には及び玉はず。孟子に至て、人の性は善なりと云、又我浩然の気を養との玉ふ。告子は生を之れ性と謂ふ、又曰く、性は善無く不善無し、或は性は猶ほ杞柳のごとし、性は猶ほ湍水のごとしと云。又韓退之は、性に三品有りと云。荀子は、人の性は悪なり、其の善なる者は偽なりと云。楊子は、善悪混ぜりと云ひ、且老荘仏氏の説、彼此その数挙てかぞへ難し。何を是とし、何を非とせん。是に因て我朝の儒者も、或は孟子を是とし、告子韓子を是とし、又は孟子を非とし、又孔子以下を皆非の如く云者あり。その論議一として定め難し。然るを汝宋儒を是とし、孟子を尊信し、人の性は善と云。我思ふに、兔角決定しがたし。元来人に替りなければ、汝も決定は有まじけれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段善なりとの玉ふことなり。此微妙の所と、告子が云思慮と、一列にいはるべきや。大に異る所なり。孟子の性善は、生死を離て天道なり。いかんぞ告子が念々生滅する者と、一列なるべきや。此は易に似て知り難き所なり。思慮を以て知らるゝ所にあらず。信心堅固にして、憤りを発し、孔子斉に在て楽を学び、三月肉の味を知り玉はざる如くにして知るべし。世の人書物を読ながら、此性善を知らず。知らずして書を読者を喩ていはゞ、病人の如し。無事の人は、食の美き味ひを知、こゝを以て喜ぶ。熱病人も、食は喰ども、美き味ひを知らず、この故に喜ばず。性善を知らざる者も斯の如し。書は読ども、書の意味を知らず、却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孟子に与する儒者も多く、且世の俗語にも、孟子を善と思ふ者多きゆへ、汝が心にも、実に孟子の性善を得心致し、肯ふ心にはあらねども、先性は善なりと云て居るゝと見へたり。それは学者の正直とはいはれまじ。我云如くに、疑しきは疑ひありといふこそ、正直なるべけれ。尤世渡りの勝手をいはゞ悪からん。然れども、心に咎はあるまじと思へり。汝頸を押て問ならば、性善には是ぞと証はなかるべし。証はなけれども、先孟子に寄因て、性善と説触られ候や。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性理は第一の事とは思へり。然れども、兔角聞得ることかたし。雲泥の違ある告子が非を得心せば、孟子を是としらるべきや。答、孟子の性善を得れば、白昼に黒白を分る如し。他の非は、聞ずして明に分るなり。何ぞ非を知ることあらん。性善を知れば、定木を以て曲直を正すが如し。孟子の性善との玉ふは、心を尽して性を知り、性を知る時は天を知る。天を知るを学問の初めとす。天を知れば、事理自明白なり。此を以て私なく公にして、日月の普照し玉ふがごとし。告子がいへる所は、生れながらの性を見失ひ、私知を用ゆれば、白昼に日輪の光をからずして、戸を閉て灯火を用ゆるが如し。照す所如斯違あるなり。因て雲泥の違と云。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、