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都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段

手ノ舞足ノ蹈所ヲ忘シ者ヲ畫ベシ、此所ヲ傳曰、豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗無不到ト、扠コノ所ハ、我心ヲ盡ホドホドニ、嬉サチガフナリ、年久シク如何々々ト思フ所ヨリ、忽然トシテ疑ヒ晴ルコトアリ、然ルニ一ヶ月ヤ二ヶ月ニ疑ヒヲ起シ、是ニ於テモ、彷彿ト開クコトアリトイヘドモ、喜コト少シ、少キユヘニ勇氣出ズ、又信心堅固ニシテ入立時ハ、假令辻ニ立テナリトモ、此味ヒヲ世ニ傳ヘ殘サント思フ勇氣モ出ルナリ、我文學ノ拙キ恥ヲ知ラズシテ、如斯謂散スハ、實ニ鄙夫トイフベケレド、我志ヲ述ンタメナリ、

新字:手ノ舞足ノ蹈所ヲ忘シ者ヲ画ベシ、此所ヲ伝曰、豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗無不到ト、扠コノ所ハ、我心ヲ尽ホドホドニ、嬉サチガフナリ、年久シク如何々々ト思フ所ヨリ、忽然トシテ疑ヒ晴ルコトアリ、然ルニ一ヶ月ヤ二ヶ月ニ疑ヒヲ起シ、是ニ於テモ、彷彿ト開クコトアリトイヘドモ、喜コト少シ、少キユヘニ勇気出ズ、又信心堅固ニシテ入立時ハ、仮令辻ニ立テナリトモ、此味ヒヲ世ニ伝ヘ残サント思フ勇気モ出ルナリ、我文学ノ拙キ恥ヲ知ラズシテ、如斯謂散スハ、実ニ鄙夫トイフベケレド、我志ヲ述ンタメナリ、

書き下し

手の舞足の蹈所を忘し者を画べし。此所を伝に曰く、豁然として貫通すれば、則ち衆物の表裏精粗到らざること無しと。扠この所は、我心を尽ほどほどに、嬉さちがふなり。年久しく如何々々と思ふ所より、忽然として疑ひ晴ることあり。然るに一ヶ月や二ヶ月に疑ひを起し、是に於ても、彷彿と開くことありといへども、喜こと少し。少きゆへに勇気出ず。又信心堅固にして入立時は、仮令辻に立てなりとも、此味ひを世に伝へ残さんと思ふ勇気も出るなり。我文学の拙き恥を知らずして、如斯謂散すは、実に鄙夫といふべけれど、我志を述んためなり。

現代語訳

手が舞い足が踏むのも忘れるほど喜んでいる人を描くでしょう。このところを『大学』の伝に『からりと貫き通れば、あらゆる物の表と裏、精と粗に行き届かないところはない』と言っています。さて、このところは、自分の心を尽くせば尽くすほど、嬉しさが違ってきます。長年どうだろう、どうだろうと思い続けたところから、忽然として疑いが晴れることがあります。ところが一か月や二か月で疑いを起こしたのでは、それで何となく開けることがあっても喜びは少なく、少ないので勇気が出ません。また信心を固くして入り込んだときは、たとえ辻に立ってでも、この味わいを世に伝え残そうという勇気も出てくるのです。わたしが学問の拙さを恥とも思わずこのように言い散らすのは、まことに卑しい者と言うべきでしょうが、自分の志を述べるためなのです。

解説

「豁然として貫通すれば…」は、朱子が『大学』の格物致知を補った「補伝」の一節です。疑いを長く深く抱いた人ほど、晴れたときの喜びが大きく、その喜びが人に伝えずにはいられない勇気になる、と梅岩は言います。「辻に立ってでも伝え残したい」という言葉は、梅岩が京都車屋町の自宅で、紹介も席料も要らない講席を開いた動機をそのまま語っているようです。学問の拙さを「鄙夫」と卑下しつつも、志は曲げない姿が見えます。

この章句が説くこと

豁然大学勇気講釈

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