都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
善ナリトノ玉フコトナリ、此微妙ノ所ト、告子ガ云思慮ト、一列ニイハルベキヤ、大ニ異ル所ナリ、孟子ノ性善ハ、生死ヲ離テ天道ナリ、イカンゾ告子ガ念々生滅スル者ト、一列ナルベキヤ、此ハ易ニ似テ難知所ナリ、思慮ヲ以テ知ラルヽ所ニアラズ、信心堅固ニシテ、憤リヲ發シ、孔子齊ニ在テ樂ヲ學ビ、三月肉ノ味ヲ知リ玉ハザル如クニシテ可知、世ノ人書物ヲ讀ナガラ、此性善ヲ知ラズ、不知シテ書ヲ讀者ヲ喩テイハヾ、病人ノ如シ、無事ノ人ハ、食ノ美キ味ヒヲ知、コヽヲ以テ喜ブ、熱病人モ、食ハ喰ドモ、美キ味ヒヲ知ラズ、コノ故ニ不喜、性善ヲ不知者モ斯ノ如シ、書ハ讀ドモ、書ノ意味ヲ知ラズ、却テ孟子ノ性善ヲ非ト見ルナリ、孟子ノ性善モ天ナリ、
新字:善ナリトノ玉フコトナリ、此微妙ノ所ト、告子ガ云思慮ト、一列ニイハルベキヤ、大ニ異ル所ナリ、孟子ノ性善ハ、生死ヲ離テ天道ナリ、イカンゾ告子ガ念々生滅スル者ト、一列ナルベキヤ、此ハ易ニ似テ難知所ナリ、思慮ヲ以テ知ラルヽ所ニアラズ、信心堅固ニシテ、憤リヲ発シ、孔子斉ニ在テ楽ヲ学ビ、三月肉ノ味ヲ知リ玉ハザル如クニシテ可知、世ノ人書物ヲ読ナガラ、此性善ヲ知ラズ、不知シテ書ヲ読者ヲ喩テイハヾ、病人ノ如シ、無事ノ人ハ、食ノ美キ味ヒヲ知、コヽヲ以テ喜ブ、熱病人モ、食ハ喰ドモ、美キ味ヒヲ知ラズ、コノ故ニ不喜、性善ヲ不知者モ斯ノ如シ、書ハ読ドモ、書ノ意味ヲ知ラズ、却テ孟子ノ性善ヲ非ト見ルナリ、孟子ノ性善モ天ナリ、
書き下し
善なりとの玉ふことなり。此微妙の所と、告子が云思慮と、一列にいはるべきや。大に異る所なり。孟子の性善は、生死を離て天道なり。いかんぞ告子が念々生滅する者と、一列なるべきや。此は易に似て知り難き所なり。思慮を以て知らるゝ所にあらず。信心堅固にして、憤りを発し、孔子斉に在て楽を学び、三月肉の味を知り玉はざる如くにして知るべし。世の人書物を読ながら、此性善を知らず。知らずして書を読者を喩ていはゞ、病人の如し。無事の人は、食の美き味ひを知、こゝを以て喜ぶ。熱病人も、食は喰ども、美き味ひを知らず、この故に喜ばず。性善を知らざる者も斯の如し。書は読ども、書の意味を知らず、却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。
現代語訳
善であるとおっしゃったことなのです。この微妙なところと、告子の言う思慮とを、同列に言えるでしょうか。大いに異なるところです。孟子の性善は、生死を離れた天の道です。どうして告子の、一念一念生まれては消えるものと同列でありましょう。これはやさしそうに見えて知りがたいところで、思慮で知れるところではありません。信心を固くし、発憤して、孔子が斉にいて音楽を学び、三か月も肉の味が分からなかったほどに打ち込んで、はじめて知ることができます。世の人は書物を読みながら、この性善を知りません。知らずに書物を読む人をたとえれば、病人のようなものです。健康な人は食べ物のおいしさが分かるので喜びます。熱病の人も食べることは食べますが、おいしさが分からないので喜びません。性善を知らない人もこのとおりで、書物は読んでも書物の意味が分からず、かえって孟子の性善を誤りと見るのです。孟子の性善も天です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、孟子の性善と、告子が、性に善無く不善無しと云は、同じかるべし。如何となれば、善無く不善無き所は、空々寂々としたる所なり。孟子は、其空々寂々たる所に、名を蒙らしめて、性善といへり。告子はありのまゝに、善無く不善無しと云。辞に替りはあれども、実は虚名なり。夫に孟子は是とし、告子は非とするは、如何なることぞ。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段酔の中に夢をとき、世を惑すこと哀にあらずや。早く孔孟の一を知るべし。孔子孟子は割符の如し。孔子を是とせば、孟子も是なり。孟子の性善を貴び、糟を食ひ与するには非ず、我心に合ふゆへなり。加様に説時は、甚知り易に似れども、此上を味ひ得ことかたし。味ひ得ば、生死は一致なり。是故に、朝に道を聞かば夕に死すとも可なりと、孔子もの玉へり。扠孔孟の曰所の善を、世に見誤こと多し。性が善ならば、世の中は皆善人にて、悪人はなき筈なり。然るに悪人も多ければ、定めて虚名ならんと疑ふ者多し。是以て味ひ得者少なり。如何となれば、今日の上、此は善彼は悪と、善悪対々の善と見るゆへに、聖人の宗を失して、大なる謬出る所なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段或学者問ひて曰く、大聖孔子は、三綱五常の道を説、性理の沙汰には及び玉はず。孟子に至て、人の性は善なりと云、又我浩然の気を養との玉ふ。告子は生を之れ性と謂ふ、又曰く、性は善無く不善無し、或は性は猶ほ杞柳のごとし、性は猶ほ湍水のごとしと云。又韓退之は、性に三品有りと云。荀子は、人の性は悪なり、其の善なる者は偽なりと云。楊子は、善悪混ぜりと云ひ、且老荘仏氏の説、彼此その数挙てかぞへ難し。何を是とし、何を非とせん。是に因て我朝の儒者も、或は孟子を是とし、告子韓子を是とし、又は孟子を非とし、又孔子以下を皆非の如く云者あり。その論議一として定め難し。然るを汝宋儒を是とし、孟子を尊信し、人の性は善と云。我思ふに、兔角決定しがたし。元来人に替りなければ、汝も決定は有まじけれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性理は第一の事とは思へり。然れども、兔角聞得ることかたし。雲泥の違ある告子が非を得心せば、孟子を是としらるべきや。答、孟子の性善を得れば、白昼に黒白を分る如し。他の非は、聞ずして明に分るなり。何ぞ非を知ることあらん。性善を知れば、定木を以て曲直を正すが如し。孟子の性善との玉ふは、心を尽して性を知り、性を知る時は天を知る。天を知るを学問の初めとす。天を知れば、事理自明白なり。此を以て私なく公にして、日月の普照し玉ふがごとし。告子がいへる所は、生れながらの性を見失ひ、私知を用ゆれば、白昼に日輪の光をからずして、戸を閉て灯火を用ゆるが如し。照す所如斯違あるなり。因て雲泥の違と云。