都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
答、動靜ノ二ッナリ、其動ハ何方ヨリ來リ、靜ニナルハ、何方ニ歸ゾヤ、曰、無極大極トイヘドモ、畢竟ナキモノニ名ヲ付タルニヤ、聢ト落著ナリガタシ、答、無物ニアラズ、大極トイフハ、天地人ノ體ナリ、先汝ガ鼻ノ息ト口ノ息トハ、二ッカ一ッカ、
新字:答、動静ノ二ッナリ、其動ハ何方ヨリ来リ、静ニナルハ、何方ニ帰ゾヤ、曰、無極大極トイヘドモ、畢竟ナキモノニ名ヲ付タルニヤ、聢ト落著ナリガタシ、答、無物ニアラズ、大極トイフハ、天地人ノ体ナリ、先汝ガ鼻ノ息ト口ノ息トハ、二ッカ一ッカ、
書き下し
答、動静の二つなり。其動は何方より来り、静になるは、何方に帰ぞや。曰く、無極大極といへども、畢竟なきものに名を付たるにや、聢と落著なりがたし。答、無物にあらず。大極といふは、天地人の体なり。先汝が鼻の息と口の息とは、二つか一つか。
現代語訳
答え。「動と静の二つだと言う。ではその動はどこから来て、静になるときはどこへ帰るのですか。」問う人「無極・太極といっても、つまるところ無いものに名前を付けただけではないでしょうか。はっきりとは腑に落ちません。」答え。「無いものではありません。太極というのは、天・地・人の本体です。まず、あなたの鼻の息と口の息とは、二つですか、一つですか。」
解説
問う学者が持ち出す無極・太極は、宋の周敦頤『太極図説』の言葉で、朱子学の宇宙論の出発点です。学者はそれを「無いものに名を付けただけ」と片づけますが、梅岩は抽象論をやめ、いきなり相手の鼻と口の息に話を移します。宇宙の根源という大きな問いを、いま自分がしている呼吸という最も身近な事実で確かめさせる。遠い概念を目の前の手触りに引き寄せるこの転換は、梅岩の問答によく見られる教え方で、難しい話を現場の言葉に置き換えるときの手本になります。
この章句が説くこと
太極無極呼吸天地実感
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、是も分がたし。答、其口と鼻との息は、直に天地の陰陽なり。天地に吐て天地に吸、其吸と吐とを、暫くも止め置れ候や。曰く、止ること能はず。答、呼吸は天地の陰陽にして、汝が息には非ず。因て汝も、天地の陰陽と一致にならざれば、忽に死するなり。陰陽の外に、汝が命なきこと明白なり。吸息は陰なり、吐息は陽なり。之を継ぐ者は善なり。身の動も静なるも、天地の陰陽なり。易と何ぞ替ことあらん。孔子は、天地を以て、道の体を説明し玉ふ。孟子は、人を以て道の体を説明し玉ふ。天人一なれば、道も亦一なり。周子曰く、五行は一陰陽なり、陰陽は一太極なり、太極は本無極なりと。此無極を一とやいはん二とやいはん。己に実知せずば、何を以て道を説ん。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段万物生生して古今違はず。其生々を継物を善と云。分ていはゞ、天は形なふして心の如し、地は形有て物の如し。其生々する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し。天地は、死活の二を兼たる物なり。死活の二を兼すぶるゆへに、万物の体となる。其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。然るに私意を用ゆる者は、天地は活物なりと、一方を知て、死活を摂て、一理なることを知らず。因て害をなすこと甚し。是故に、孔子、異端を攻むるは斯れ害あるのみとの玉ふことなり。天地を、人の上にていはゞ、心は虚にして天なり、形はふさがつて地なり、呼吸は陰陽なり、これを継者は善なり、用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ、人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば、何に不足の有べきや。告子は是を知らず、生滅にあづかる思慮を以て、我性と思。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば、思慮なき天理に異るゆへなり。此味ひを知らざる者は、天道に合はざるゆへに異端と云。渾然たる一理の性に至れる孟子には異る所なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、孔子、易に、一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なりとの玉ふ。天地は一陰一陽なり。陰陽の外に他物有や。曰く、五行といへども、陰陽なれば他物はなし。答、然らば此陰陽は二つか一つか。曰く、二つとも分がたし。又一つかと思へば、動静の二つなり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段是にて陰陽陰陽と、生成して止まざることを知るべし。天は一、地は二、万物は三、天地有りて後の万物なり。人は万物の霊なるゆへに、万物を人に総合し、三に生ずるゆへに、人は寅に生ずとも云ふべし。又人、母の胎内に宿る時は、一滴の水なり。是れ雞の子の如くにして、牙を含めり。其の中に清陽なる者、虚にして心となるは、天の開くるなり。重濁なる者形となるは、地の闢くるなり。頭の形の高きは、葦牙の如しとも云ふべし。是くの如く見ば、天地開闢の理は、我が一身にも具はれり。此れを味はひ見ば、天地の始終は、古今共に同じ。それを今此の上下の天地、ひらけ始まること有りとの玉ひしことと、一概に見なし、又天は子に闢くるの、地は丑に闢くるの、人は寅に生るるのと、字面にかかわり、