都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
答、孔子、易一陰一陽之謂道、繼之者善也、成之者性也トノ玉フ、天地ハ一陰一陽ナリ、陰陽ノ外ニ他物有ヤ、曰、五行トイヘドモ、陰陽ナレバ他物ハナシ、答、然ラバ此陰陽ハ二ッカ一ッカ、曰、二ットモ分ガタシ、又一ッカト思ヘバ、動靜ノ二ッナリ、
新字:答、孔子、易一陰一陽之謂道、継之者善也、成之者性也トノ玉フ、天地ハ一陰一陽ナリ、陰陽ノ外ニ他物有ヤ、曰、五行トイヘドモ、陰陽ナレバ他物ハナシ、答、然ラバ此陰陽ハ二ッカ一ッカ、曰、二ットモ分ガタシ、又一ッカト思ヘバ、動静ノ二ッナリ、
書き下し
答、孔子、易に、一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なりとの玉ふ。天地は一陰一陽なり。陰陽の外に他物有や。曰く、五行といへども、陰陽なれば他物はなし。答、然らば此陰陽は二つか一つか。曰く、二つとも分がたし。又一つかと思へば、動静の二つなり。
現代語訳
答え。「孔子は易で『一たび陰となり一たび陽となる、これを道という。これを継ぐものが善であり、これを成すものが性である』とおっしゃいました。天地は一陰一陽です。陰陽のほかに何か別のものがありますか。」問う人「五行といっても陰陽ですから、ほかのものはありません。」答え。「では、この陰陽は二つですか、一つですか。」問う人「二つとも決めかねます。また一つかと思えば、動と静の二つです。」
解説
梅岩は性善を説くのに、孟子ではなく『易経』繋辞上伝の「一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」から入ります。孔子の言葉とされるこの一節に「善」と「性」がそろって出てくるので、孔子と孟子は同じことを言っていると示せるからです。陰陽は二つか一つかという問いは、相手に自分で考えさせるための仕掛けで、答えを先に言わず、相手の口から迷いを言わせる。問答形式ならではの運び方で、部下との対話にも通じる手法です。
この章句が説くこと
陰陽易経善性問答
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孔子の易の性善も天なり。天地と人と別々といはゞ、汝口と鼻とを塞、活て見よ。天地の陰陽を受ずして活られなば、孟子は非なり。死すべしといはゞ、孟子は是にして、天地の性善と一致なること決せり。是端的の証なり。其継物を知らざるによつて迷ふなり。其迷よりして、告子が説を、実尤と請合なり。告子がいへる如く、性に何ぞ善不善あらんやといはゞ、人挙て是に寄べきが、退て工夫すべき所なり。善不善なしと思ふ一念は、毫釐の差なれども、遂る所にては、千里の謬となる。聖人の道は天地のみ。天地は見へたる通に、清と濁と有て、天は清り地は濁れり。清る天も濁れる地も、何方を見ればとて、物を生じ育ふべきとも見へず。無心なれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、是も分がたし。答、其口と鼻との息は、直に天地の陰陽なり。天地に吐て天地に吸、其吸と吐とを、暫くも止め置れ候や。曰く、止ること能はず。答、呼吸は天地の陰陽にして、汝が息には非ず。因て汝も、天地の陰陽と一致にならざれば、忽に死するなり。陰陽の外に、汝が命なきこと明白なり。吸息は陰なり、吐息は陽なり。之を継ぐ者は善なり。身の動も静なるも、天地の陰陽なり。易と何ぞ替ことあらん。孔子は、天地を以て、道の体を説明し玉ふ。孟子は、人を以て道の体を説明し玉ふ。天人一なれば、道も亦一なり。周子曰く、五行は一陰陽なり、陰陽は一太極なり、太極は本無極なりと。此無極を一とやいはん二とやいはん。己に実知せずば、何を以て道を説ん。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段或学者問ひて曰く、大聖孔子は、三綱五常の道を説、性理の沙汰には及び玉はず。孟子に至て、人の性は善なりと云、又我浩然の気を養との玉ふ。告子は生を之れ性と謂ふ、又曰く、性は善無く不善無し、或は性は猶ほ杞柳のごとし、性は猶ほ湍水のごとしと云。又韓退之は、性に三品有りと云。荀子は、人の性は悪なり、其の善なる者は偽なりと云。楊子は、善悪混ぜりと云ひ、且老荘仏氏の説、彼此その数挙てかぞへ難し。何を是とし、何を非とせん。是に因て我朝の儒者も、或は孟子を是とし、告子韓子を是とし、又は孟子を非とし、又孔子以下を皆非の如く云者あり。その論議一として定め難し。然るを汝宋儒を是とし、孟子を尊信し、人の性は善と云。我思ふに、兔角決定しがたし。元来人に替りなければ、汝も決定は有まじけれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答、是汝が得ざるの所なり。先告子が善不善無しと云は、是思慮なり。如何となれば、我性と云者を尋見れども、善とも不善とも分れず、然れば善も不善も無者なりと、思慮を以て見たる所なり。孟子の性善は直に天地なり。如何となれば、人の寝入たる時にても、無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息には非ず。天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは、天地浩然の気なり。我と天地と、渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。自然にして易に合へり。扠此所は、前後ともに聞分がたき所なり。黙して工夫せらるべし。易は、天地の上にて説玉へば、凡て無心の所なり。其無心の陰陽が、一たび動き、一たび静なり。是を継者が、
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『呻吟語』内篇・談道・善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず。秤錘は鐵なるも、鐵は秤錘ならず。或るひと曰く、「孟子性善を道ふは、與に非ざるか」と。曰く、「余の言ふ所は、孟子の言なり。孟子は耳目口鼻四肢の欲を以て性と為す。此の性善なるか否か」と。天に自ら兩種の天有り。理道の天有り、氣數の天有り。故に之を人に賦するに、義理の性有り、氣質の性有り。二天は皆な太極より出づ。理道の天は是れ先天、未だ陰陽五行を著けざる以前、純善にして惡無し。氣數の天は是れ後天、陰陽五行に落つるの後、善有り惡有り。孟子の性善を道ふは、只だ個の德性を言ふのみ。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、孟子の性善と、告子が、性に善無く不善無しと云は、同じかるべし。如何となれば、善無く不善無き所は、空々寂々としたる所なり。孟子は、其空々寂々たる所に、名を蒙らしめて、性善といへり。告子はありのまゝに、善無く不善無しと云。辞に替りはあれども、実は虚名なり。夫に孟子は是とし、告子は非とするは、如何なることぞ。