都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
曰、汝ノイヘル所モ一理アルナレバ、何レヲ學ブモ外ナラズ、我モ向後ハ、心ノコトヲモ工夫スベキガ、然レドモ、孟子ノ性善ハ、愈濟ガタシ、聖人ハ、知仁勇ノ三德全シテ善ナルベシ、最早賢人サヘ全カラズ、況ヤ衆人ハ又劣リ、ソレヲ一列ニ善トイフハ、如何ナルコトゾヤ、
新字:曰、汝ノイヘル所モ一理アルナレバ、何レヲ学ブモ外ナラズ、我モ向後ハ、心ノコトヲモ工夫スベキガ、然レドモ、孟子ノ性善ハ、愈済ガタシ、聖人ハ、知仁勇ノ三徳全シテ善ナルベシ、最早賢人サヘ全カラズ、況ヤ衆人ハ又劣リ、ソレヲ一列ニ善トイフハ、如何ナルコトゾヤ、
書き下し
曰く、汝のいへる所も一理あるなれば、何れを学ぶも外ならず。我も向後は、心のことをも工夫すべきが、然れども、孟子の性善は、愈済がたし。聖人は、知仁勇の三徳全して善なるべし。最早賢人さへ全からず。況や衆人は又劣り、それを一列に善といふは、如何なることぞや。
現代語訳
問う人「あなたの言うことにも一理あるので、どれを学んでも別の道ではないでしょう。わたしもこれからは心のことも工夫してみます。それでも孟子の性善は、いよいよ納得できません。聖人なら知・仁・勇の三徳がそろって善でしょう。しかし賢人でさえ三徳がそろってはいません。まして普通の人はさらに劣ります。それをひとしなみに善というのは、どういうことですか。」
解説
問う学者はここで少し歩み寄りながらも、本丸の疑問を出します。聖人・賢人・衆人と、人の出来には明らかに差があるのに、全員の性を善と呼ぶのはおかしいのではないか。知仁勇の三徳は『中庸』に「知仁勇の三者は天下の達徳なり」とある言葉です。能力や人格の差が目に見えるのに、根は同じだと言えるのか。これは人材の見方そのものに関わる問いで、梅岩はこの後、同じ土なのに上田と下田がある田んぼのたとえでこれに答えていきます。
この章句が説くこと
性善知仁勇賢人衆人差
関連する章句
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段或学者問ひて曰く、大聖孔子は、三綱五常の道を説、性理の沙汰には及び玉はず。孟子に至て、人の性は善なりと云、又我浩然の気を養との玉ふ。告子は生を之れ性と謂ふ、又曰く、性は善無く不善無し、或は性は猶ほ杞柳のごとし、性は猶ほ湍水のごとしと云。又韓退之は、性に三品有りと云。荀子は、人の性は悪なり、其の善なる者は偽なりと云。楊子は、善悪混ぜりと云ひ、且老荘仏氏の説、彼此その数挙てかぞへ難し。何を是とし、何を非とせん。是に因て我朝の儒者も、或は孟子を是とし、告子韓子を是とし、又は孟子を非とし、又孔子以下を皆非の如く云者あり。その論議一として定め難し。然るを汝宋儒を是とし、孟子を尊信し、人の性は善と云。我思ふに、兔角決定しがたし。元来人に替りなければ、汝も決定は有まじけれども、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、田に心なければ、悪心とはいはれまじ。然れども、上田下田とはいふべし。答、然らば土に替りはなく、同じ土なれども、上田下田の替りあるなり。是地に肥たると磽たるとありといへども、土の理に替ることなし。然れば、土は同じ土にてありながら、上田と下田とあり。然りといへども、土に具る所の理は同じ。同きゆへに、漸々に糞を入、土を入れば、下田は中田となる、中田は上田となる。是を人に喩ていはゞ、下田は小人なり、中田は賢人なり、上田は聖人なり。聖人と賢人と小人と替りあれども、元性善は同きゆへに、学ば漸々を以て、小人は賢人となり、賢人は聖人となる。是性は一なる証なり。扠聖人も賢人も小人も、今日活て動くは、呼吸の二つなり。此二つを継ものを見得すれば、形なきものにして、万物の体となるものなり。是を名づけて、善なりとの玉ふ。此性の善なることは、私慮を以て窺ひ知るべきにあらず。孟子の性善は、前にいふ如く、悪に対する善に非ず。誤るべからず。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段孟子に与する儒者も多く、且世の俗語にも、孟子を善と思ふ者多きゆへ、汝が心にも、実に孟子の性善を得心致し、肯ふ心にはあらねども、先性は善なりと云て居るゝと見へたり。それは学者の正直とはいはれまじ。我云如くに、疑しきは疑ひありといふこそ、正直なるべけれ。尤世渡りの勝手をいはゞ悪からん。然れども、心に咎はあるまじと思へり。汝頸を押て問ならば、性善には是ぞと証はなかるべし。証はなけれども、先孟子に寄因て、性善と説触られ候や。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、孟子の性善と、告子が、性に善無く不善無しと云は、同じかるべし。如何となれば、善無く不善無き所は、空々寂々としたる所なり。孟子は、其空々寂々たる所に、名を蒙らしめて、性善といへり。告子はありのまゝに、善無く不善無しと云。辞に替りはあれども、実は虚名なり。夫に孟子は是とし、告子は非とするは、如何なることぞ。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性善を知るは、至極のことにて有べけれど、我等ごときは、何程聞ても得らるべきにあらず。孟子の如き器量あらば善ならん。後世の者、所詮及び難し。又世界数万億の中に、纔に二十人三十人、仮令九十百に至り、得心する人ありとも、いはゞ少しのことなり。只心易云て、世渡りを能するこそ善かるべけれ。仏者ならば、極楽へ往生すと云て悦ばせ、儒者ならば、天地に升降と云こそ、勝んと思へり。仮令覚ればとて、同じ天地なれば、苦んで益なきことにあらずや。
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