都鄙問答 / 卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段
相模守殿家人ト公文ト相論有シガ、相模守殿家人ノ無理ナレドモ、評定ノ面々、時ノ權威ニ恐レテ、理非ヲ分ザル所ニ、靑砥是ヲ分明ニ分ル、此時公文大ニ悅ビ、其夜半ニ、鳥目三百貫文、靑砥ガ屋鋪ヘ、後ノ山ヨリ落シ入レヌ、靑砥是ヲ見テ喜ビズシテ、殘ラズ反シ遣シテ言フ樣ハ、相模守殿ヨリコソ、褒美ヲバ受ベキ所ナリ、公事ヲ分明ニ分ルハ、相模守殿ヲ思ヒタテマツルユヘナリ、天下ノ理非正キハ、相模守殿喜ビ玉フベキ所ナリトゾ言ケル、カクノ如キ者ハ、士ノ中ニ入ベシ、才知ハ靑砥ニ劣ル人モ有ルベシ、不義ノ物ヲ受ザルホドノ事、靑砥ニ劣ラバ、士トハ云ハレマジ、コヽヲ以テ見レバ、世ノ人ノ鏡ト成ルベキ者ハ士ナリ、子曰、蓋有之矣、
新字:相模守殿家人ト公文ト相論有シガ、相模守殿家人ノ無理ナレドモ、評定ノ面々、時ノ権威ニ恐レテ、理非ヲ分ザル所ニ、青砥是ヲ分明ニ分ル、此時公文大ニ悦ビ、其夜半ニ、鳥目三百貫文、青砥ガ屋鋪ヘ、後ノ山ヨリ落シ入レヌ、青砥是ヲ見テ喜ビズシテ、残ラズ反シ遣シテ言フ様ハ、相模守殿ヨリコソ、褒美ヲバ受ベキ所ナリ、公事ヲ分明ニ分ルハ、相模守殿ヲ思ヒタテマツルユヘナリ、天下ノ理非正キハ、相模守殿喜ビ玉フベキ所ナリトゾ言ケル、カクノ如キ者ハ、士ノ中ニ入ベシ、才知ハ青砥ニ劣ル人モ有ルベシ、不義ノ物ヲ受ザルホドノ事、青砥ニ劣ラバ、士トハ云ハレマジ、コヽヲ以テ見レバ、世ノ人ノ鏡ト成ルベキ者ハ士ナリ、子曰、蓋有之矣、
書き下し
相模守殿家人と公文と相論有りしが、相模守殿家人の無理なれども、評定の面々、時の権威に恐れて、理非を分かたざる所に、青砥是を分明に分く。此の時公文大いに悦び、其の夜半に、鳥目三百貫文、青砥が屋舗へ、後の山より落し入れぬ。青砥是を見て喜ばずして、残らず返し遣はして言ふ様は、相模守殿よりこそ、褒美をば受くべき所なり。公事を分明に分くるは、相模守殿を思ひたてまつるゆゑなり。天下の理非正しきは、相模守殿喜びたまふべき所なりとぞ言ひける。かくの如き者は、士の中に入るべし。才知は青砥に劣る人も有るべし。不義の物を受けざるほどの事、青砥に劣らば、士とは云はれまじ。ここを以て見れば、世の人の鏡と成るべき者は士なり。子曰く、蓋し之有らん、
現代語訳
「相模守殿の家来と公文(荘園の役人)とのあいだで争いがあり、相模守殿の家来のほうに無理があったのに、評定の人々は時の権威を恐れて理非を分けずにいたところ、青砥ははっきりと裁きました。このとき公文は大いに喜び、その夜中に銭三百貫文を、青砥の屋敷の裏山から投げ入れました。青砥はこれを見て喜ばず、残らず返して言いました。『褒美なら相模守殿からこそ受けるべきだ。訴えをはっきり裁いたのは相模守殿を思い奉るからだ。天下の理非が正しいのは、相模守殿がお喜びになるべきことだ。』このような者こそ士の中に入れるべきです。才知では青砥に劣る人もいるでしょう。しかし不義の物を受けないことで青砥に劣るなら、士とは言えません。これを見れば、世の人の手本となるべき者は士なのです。孔子は『そういう人もいるだろう、」
解説

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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、其の詫人より礼銀を受けとり、事を取り持つは、商人ばかりにて候や。商人の外にも、此の類あるべきことなり。答ふ、商人多くは道を聞かざる故、かやうの類有り。又道を知りて、事を取り捌く者は、左様の不義はせざることなり。仮令御領家領の庄屋年寄にても、上の正しき御政道を受けて、事を取り持つ身として、小百姓より、礼銀などを請け取ること有るべきに非ず。元来士と云はるる身が、下々より密々に、礼銀などを請くることあらば、定めて贔屓の沙汰に至るべし。下々と並んで、何ごとにても取り持つ人を、士と云ふべきか。其は盗人と云ふ者にて、士にはあらず。上にたつ人、下より賂などを受けて、政道たつべきや。仮令当分は知れずとも、天知る地知る我知る人知るなれば、終にはあらはれて、天の罰を受くべし。天罰を知らざる者、天下静謐の世に有るべからず。然れ共売人は士にあらざれば、かやうなる不義有るなり。毫釐ほども道に志あらば、なすべきことに非ず。
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尚書・呂刑獄貨は寶に非ず。
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『春秋左氏伝』襄公十年 篳門閨竇の訴へ王叔陳生、伯輿と政を爭ふ。王、伯輿を右(たす)く。王叔陳生怒りて出奔す。河に及ぶ。王之を復し、史狡を殺して以て說(よろこ)ばしむ。入らず、遂に之に處る。晉侯、士匄をして王室を平がしむ。王叔と伯輿と焉に訟ふ。王叔の宰と、伯輿の大夫瑕禽(かきん)と、獄に王庭に坐す。士匄之を聽く。王叔の宰曰く、「篳門閨竇(ひつもんけいとう)の人にして、皆其の上を陵ぐ。其れ上為ること難し」と。瑕禽曰く、「昔、平王東遷するに、吾が七姓、王に從ひ、牲用備具す。王之に賴り、而して之に騂旄(せいばう)の盟を賜ひて曰く、『世世職を失ふ無かれ』と。若し篳門閨竇ならば、其れ能く東に來り底(いた)らんや。且つ王何ぞ焉に賴らん。今、王叔の相たりしより、政は賄を以て成り、刑は寵に放(したが)ふ。官の師旅、其の富に勝へず。吾能く篳門閨竇無からんや。唯だ大國之を圖れ。下にして直無くんば、則ち何をか正と謂はん」と。范宣子曰く、「天子の右くる所は、寡君も亦た之を右け、左くる所は亦た之を左く」と。王叔氏と伯輿とをして要を合せしむ。王叔氏、其の契を舉ぐる能はず。王叔、晉に奔る。書せざるは、告げざればなり。單靖公、卿士と為り、以て王室を相く。
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