都鄙問答 / 卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段
曰、然ラバ商人ノ賣買ニテ、利ヲ得コトハ有ベキコトナリ、其外ニ曲テ非ナルコト候ヤ、答今日世間ノアリサマニ、曲テ非ナルコト多シ、コヽヲ以テ敎ヘアルナリ、實ノ商人ハ、敬ミ爲ザルコト有リ、譬ヘヲ以テ告ン、我幼年ノ時分ニ聞シコト有リ、昔或國ニ、中頃ヨリ水入ニナリ、農作ナラヌ田地アリ、其昔、水モ入ラザリシ時、年貢ヲカケラレシ例ニヨリ、今モ少々宛年貢ヲカケラレシニ、其田地ニ果ヲ植、稻作ヨリ增ニ、ヨコモノナリ揚ケレバ、其果ニ、先君ノ時ヨリ、又運上ヲカケラルヽトカヤ、君コレヲ難義ニ思召、是新法ヲ止、民ノ害ルヽコトヲ救ハント志シ玉ヘドモ、親殿ノ時ヨリ始ラレシコトナレバ、子ノ身トシテ、改メ變コトヲ歎キ玉ヒ、
新字:曰、然ラバ商人ノ売買ニテ、利ヲ得コトハ有ベキコトナリ、其外ニ曲テ非ナルコト候ヤ、答今日世間ノアリサマニ、曲テ非ナルコト多シ、コヽヲ以テ教ヘアルナリ、実ノ商人ハ、敬ミ為ザルコト有リ、譬ヘヲ以テ告ン、我幼年ノ時分ニ聞シコト有リ、昔或国ニ、中頃ヨリ水入ニナリ、農作ナラヌ田地アリ、其昔、水モ入ラザリシ時、年貢ヲカケラレシ例ニヨリ、今モ少々宛年貢ヲカケラレシニ、其田地ニ果ヲ植、稲作ヨリ增ニ、ヨコモノナリ揚ケレバ、其果ニ、先君ノ時ヨリ、又運上ヲカケラルヽトカヤ、君コレヲ難義ニ思召、是新法ヲ止、民ノ害ルヽコトヲ救ハント志シ玉ヘドモ、親殿ノ時ヨリ始ラレシコトナレバ、子ノ身トシテ、改メ変コトヲ嘆キ玉ヒ、
書き下し
曰く、然らば商人の売買にて、利を得ることは有るべきことなり。其の外に曲げて非なること候や。答ふ、今日世間のありさまに、曲げて非なること多し。ここを以て教へあるなり。実の商人は、敬み為ざること有り。譬へを以て告げん。我幼年の時分に聞きしこと有り。昔或る国に、中頃より水入りになり、農作ならぬ田地あり。其の昔、水も入らざりし時、年貢をかけられし例により、今も少々宛年貢をかけられしに、其の田地に菓を植ゑ、稲作より増しに、よこものなり揚りければ、其の菓に、先君の時より、又運上をかけらるるとかや。君これを難儀に思し召し、是新法を止め、民の害るることを救はんと志したまへども、親殿の時より始められしことなれば、子の身として、改め変ふることを歎きたまひ、
現代語訳
学者は言いました。「それなら商人が売買で利を得るのは当然のことです。そのほかに、曲がった悪いことがありますか。」梅岩は答えました。「今の世の中には、曲がった悪いことが多い。だから教えがあるのです。本当の商人には、慎んでしないことがあります。たとえで話しましょう。わたしが幼いころに聞いた話です。昔ある国に、いつのころからか水が入るようになって農作ができなくなった田地がありました。水が入らなかった昔に年貢をかけた例によって、今も少しずつ年貢をかけていたところ、その田地に果樹を植えると稲作よりもよく実ったので、その果樹にも先代の殿の時から運上がかけられていたそうです。殿様はこれを気の毒に思い、この新しい税をやめて民の苦しみを救おうと考えましたが、父君の時代に始まったことなので、子の身で改めることを悩まれ、」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
言志四録・言志録 第二百三十八条 異を好むの念を容れず先儒の経解の謬誤は、訂正せざるを得ず。但だ須らく已むを得ざるに出づべし。異を好むの念有るを容れず。
-
『春秋左氏伝』昭公十三年 奥主有り、外援無し善に下りて齊肅、賄を藏せず、欲に從はず、施舍して倦まず、善を求めて厭かず。是を以って國を有つ、亦た宜ならずや。我が先君文公は、狐季姬の子なり。獻に寵有り。學を好みて貳はず。生まれて十七年、士五人有り。先大夫子餘・子犯有りて、以って腹心と為す。魏犨・賈佗有りて、以って股肱と為す。齊・宋・秦・楚有りて、以って外主と為す。欒・郤・狐・先有りて、以って内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。惠・懷民を棄て、民從ひて之に與す。獻に異親無く、民に異望無し。天方に晉を相く。將た何を以ってか文に代へん。此の二君は、子干に異なり。共には寵子有り、國には奧主有り。民に施す無く、外に援無し。晉を去れども送らず、楚に歸れども逆へず。何を以ってか國を冀はん」と。晉虒祁を成す。諸侯の朝して歸る者、皆貳心有り。郠を取るが為の故に、晉將に諸侯を以って來り討たんとす。叔向曰く、「諸侯以って威を示さざる可からず」と。乃ち並びに會を徵して吳に告ぐ。
-
『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
-
『重職心得箇条』第四条先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。
-
『春秋左氏伝』昭公二十六年 王子朝の檄文天周を弔(あはれ)まず、王昏くして若(したが)はず、用って厥の位を愆(うしな)ふ。攜王(けいおう)命を奸(をか)す。諸侯之を替へて、王嗣を建て、用って郟鄏(こうじょく)に遷る。則ち是れ兄弟の能く力を王室に用ふるなり。惠王に至り、天周を靖んぜず、頹に禍心を生じ、叔帶に施(およ)ぶ。惠・襄難を辟け、王都を越え去る。則ち晉・鄭有りて、咸(みな)不端を黜け、以って王家を綏定す。則ち是れ兄弟の能く先王の命に率ふなり。定王の六年に在りて、秦人妖を降して曰く、『周其れ髭王有らん。亦た克く其の職を脩め、諸侯服享し、二世職を共にせん。王室其れ王位を間(うかが)ふもの有らん。諸侯圖らずして、其の亂災を受けん』と。靈王に至り、生まれながらにして髭有り。王甚だ神聖にして、諸侯に惡まるること無し。靈王・景王、克く其の世を終ふ。今王室亂る。單旗・劉狄、天下を剝亂し、壹に若はざるを行ひ、謂ふ、『先王何の常か之れ有らん。唯だ余が心の命ずる所なり。其れ誰か敢へて之を請はん』と。群不弔の人を帥ゐて、以って亂を王室に行ひ、侵欲厭くこと無く、規求度無し。
-
『甲陽軍鑑』品第四十八扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前岩村田法華坊主、何にても證拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて書立を以て申上る、