都鄙問答 / 卷之二・或人親へ仕之事ヲ問之段
曰、前ニ申ス如ク、短氣ハ宜シカラズ存ジ候マヽ、是ハ何卒ナヲシ申度候、親ノ氣ヲ傷ムルコトハ、左程マデニハ存ゼズ候、知ラザル所ハ是非ナシ、又親切ニ致ストコロハ、心一盃ツクシ申候、ツネニ親ドモハ酒ヲ好ミ、給過スコト御座候、ソノ節ハ、ウタウタト長咄ヲシ、寢ルコトヲ知ラズ、母ナドモ難義ニ存ジ候、且二日醉ヲ致シ、苦ミ候ユヘ、身ヲ知ラヌ酒ノ飮ヤウト存ジ、以後ハ控ヘラレ候ヤウニ諫申候、加樣ノ類ハ、親ヲ思所ナレバ、孝行ニテハ有マジク候ヤ、
新字:曰、前ニ申ス如ク、短気ハ宜シカラズ存ジ候マヽ、是ハ何卒ナヲシ申度候、親ノ気ヲ傷ムルコトハ、左程マデニハ存ゼズ候、知ラザル所ハ是非ナシ、又親切ニ致ストコロハ、心一盃ツクシ申候、ツネニ親ドモハ酒ヲ好ミ、給過スコト御座候、ソノ節ハ、ウタウタト長咄ヲシ、寝ルコトヲ知ラズ、母ナドモ難義ニ存ジ候、且二日酔ヲ致シ、苦ミ候ユヘ、身ヲ知ラヌ酒ノ飲ヤウト存ジ、以後ハ控ヘラレ候ヤウニ諫申候、加様ノ類ハ、親ヲ思所ナレバ、孝行ニテハ有マジク候ヤ、
書き下し
曰く、前に申す如く、短気は宜しからず存じ候まゝ、是は何卒なほし申し度く候。親の気を傷むることは、左程までには存ぜず候。知らざる所は是非なし。又親切に致すところは、心一盃つくし申し候。つねに親どもは酒を好み、給べ過すこと御座候。その節は、うたうたと長咄をし、寝ることを知らず、母なども難義に存じ候。且つ二日酔を致し、苦しみ候ゆへ、身を知らぬ酒の飲みやうと存じ、以後は控へられ候やうに諫め申し候。加様の類は、親を思ふ所なれば、孝行にては有るまじく候や。
現代語訳
若旦那「先ほど申したように、短気はよくないと思いますので、何とか直したいと思います。親の気を痛めることは、そこまでとは思っていませんでした。知らなかったことは仕方がありません。それに、親切にすることには精一杯心を尽くしています。父はいつも酒が好きで、飲みすぎることがあります。そのときはうだうだと長話をして寝ることを知らず、母なども困っています。そのうえ二日酔いで苦しむので、身のほどを知らない飲み方だと思い、これからは控えてくださるよう諫めました。こういうことは親を思えばこそですから、孝行ではないでしょうか。」
解説

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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。