都鄙問答 / 卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段
仁義ヲ以テ身ヲ賊フト譏レリ、君子ハ仁義アルニ由テ、君子トイフニ、如何ナル事ゾト、眼ヲツケテ見バ、孟子ノ、舜ハ由仁義行、非行仁義也トノ玉フコト、明カナラン、無極ノ眞ヲ體トシ玉フ外ニ、仁義ト云名目アランヤ、無我ノ舜、ナンゾ仁義ヲ期ニシテ行ヒ玉フベキ、聖人ノ道ハ、一理渾然タル所ヨリ行ハルヽコトヲ知リ、佛氏モ亦、本來ハ無法ナリト會得セバ、兼好ニ譏ルヽコトモナカルベシ、汝禪家ヲ學トイヘドモ、本來ノ面目ハ不會ナリ、依テ俗家ニ、目出度嘉儀ニ殺生スルハ、アサマシキコトナリト云、汝モ自性ヲ知ラバ、五戒トイフニ不及、百戒二百戒ニテモ有ベシ、忽ニスベキコトニアラズ、急々ニ會得アルベキコトナリ、此理ヲ得バ、
新字:仁義ヲ以テ身ヲ賊フト譏レリ、君子ハ仁義アルニ由テ、君子トイフニ、如何ナル事ゾト、眼ヲツケテ見バ、孟子ノ、舜ハ由仁義行、非行仁義也トノ玉フコト、明カナラン、無極ノ真ヲ体トシ玉フ外ニ、仁義ト云名目アランヤ、無我ノ舜、ナンゾ仁義ヲ期ニシテ行ヒ玉フベキ、聖人ノ道ハ、一理渾然タル所ヨリ行ハルヽコトヲ知リ、仏氏モ亦、本来ハ無法ナリト会得セバ、兼好ニ譏ルヽコトモナカルベシ、汝禅家ヲ学トイヘドモ、本来ノ面目ハ不会ナリ、依テ俗家ニ、目出度嘉儀ニ殺生スルハ、アサマシキコトナリト云、汝モ自性ヲ知ラバ、五戒トイフニ不及、百戒二百戒ニテモ有ベシ、忽ニスベキコトニアラズ、急々ニ会得アルベキコトナリ、此理ヲ得バ、
書き下し
仁義を以て身を賊ふと譏れり。君子は仁義あるに由て、君子といふに、如何なる事ぞと、眼をつけて見ば、孟子の、舜は仁義に由りて行ふ、仁義を行ふに非ずとのたまふこと、明かならん。無極の真を体とし玉ふ外に、仁義と云名目あらんや。無我の舜、なんぞ仁義を期にして行ひ玉ふべき。聖人の道は、一理渾然たる所より行はるゝことを知り、仏氏も亦、本来は無法なりと会得せば、兼好に譏るゝこともなかるべし。汝禅家を学といへども、本来の面目は不会なり。依て俗家に、目出度嘉儀に殺生するは、あさましきことなりと云。汝も自性を知らば、五戒といふに及ばず、百戒二百戒にても有べし。忽にすべきことにあらず。急々に会得あるべきことなり。此理を得ば、
現代語訳
「仁義によって身を損なうとそしっています。君子は仁義があるから君子というのに、これはどういうことかと目をつけてみれば、孟子の『舜は仁義に由りて行う、仁義を行うに非ず』という言葉で明らかになるでしょう。無極の真を本体とされるほかに、仁義という名目があるでしょうか。我のない舜が、どうして仁義を目標にして行われるでしょう。聖人の道は一理が渾然としたところから行われると知り、仏教もまた本来は法など無いと会得すれば、兼好にそしられることもないでしょう。あなたは禅を学んでいても、本来の面目はまだ会得していません。だから俗家が祝いの席で殺生するのを浅ましいと言うのです。あなたも自性を知れば、五戒どころか百戒二百戒でも守れるでしょう。おろそかにしてはいけません。急いで会得すべきことです。この理を得れば、」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段臣として君を棄る者を賊臣と云。汝も今朝より、幾万とも数知らず、五穀仏と果仏を殺し喰ふて身を育ふ。然れども此理を知らず。知らざれども、暗に賤を以て、貴きを育ふ理に合り。汝小乗に拘て、我は殺生はせず、非情の物を喰ふと云なれば、草木国土皆仏と説玉ふ仏語は、詐とするや。是を詐とせば、仏経は皆破り捨べし。捨ずして用ゆと云はゞ、汝も大仏が小仏を喰て、殺生するに違はなし。我は幾の殺生し、身命をつなぎ居ながら、俗家は、目出度嘉儀に生物を殺し、浅間敷ことゝ云。仏の本意をしらずして、他を譏こと大なる罪ならん。汝如き、法に昧僧多きゆへに、徒然草に、僧に法有て、法を以て身を賊ひ、又君子に仁義有て、
-
『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段曰、知らざるにはあらず。如何と云に、仏法は先五戒を有を第一とす。其中に殺生戒を重き戒とす。儒家にて云ば、五常の仁の如し。儒家に於て、仁を害者を善とすることありや。汝は儒を説といへども、いまだ仁の意を知らざれば、聖賢の本意に闇し。
-
『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段かくの如きは渺然として主とする所なきに似たり。然れども聖人、理を窮め給へば、義有りて存せり。喩へば雪中に梅の香を知るが如し。形見えずして明らかなり。然れば聖人の心は、天道に至り給ひ、天地あらん限りは在し給ふ。聖人没し給ふに、心ばかり残れること如何と思ふべきが、世に在す時も、心は天道なり。詩に曰く、文王上に在して、天に昭らかなりといへり。此の心を知らば、徳行は至らずとも、儒者ともいふべきが、其の心を知らざる者を、聖人の弟子とはいふべからず。扨儒仏共に、理の所は近うして分かれがたし。又行ひの上は、見えたる通りに、雲泥の違ひあり。出家は五戒を有ち、俗は五倫の道を行ふ。是又まぎるることはなし。其の出家の真似を、俗がするに因りて、流れに費え有り。唐土にも、
-
『童子問』卷下殊に知らず、其の孤明歴歴、万劫尽くること無き者は、乃ち虚見にして実理に非ざることを。彼は天地を微塵にすれども、天地何ぞ曾て微塵ならん。人世を夢幻にすれども、人世何ぞ曾て夢幻ならん。天は是れ天、地は是れ地、古は是れ古、今は是れ今、昼は是れ昼、夜は是れ夜、生は是れ生、死は是れ死、夢は是れ夢、幻は是れ幻。有る者は自ら有り、無き者は自ら無し。明明白白、復た疑ひを容るる所無し。万古の前も此くの如く、万古の後も亦此くの如し。聖人は有は其の有に還し、無は其の無に還し、亦一毫の智慧を其の間に容れず。本より愕くべき無く、亦讃むべき無し。予を以て之を見れば、二氏の教へは、皆其の意想造作より出でて、自然の正道に非ず。夫れ人の当に修むべき所の者は、人倫のみ。人の当に務むべき所の者は、人事のみ。天下は仁に非ざれば親しまず、義に非ざれば行はれず。故に人倫を外にして道無く、仁義を外にして教へ無し。万世の遠き、四海の広き、一日も離るるを得ず。故に仁に居り義に由れば、則ち坐禅せず面壁せずと雖も、然も身自ら修まり、家自ら斉ひ、国自ら治まり、天下自ら平らかにして、往くとして可ならざる無し。苟も仁に居り義に由らざれば、則ち設ひ其の心明鏡の如く、止水の如く、一毫の人欲の私無きも、益無し。此れ聖人の道の、諸子百家に度越して、宇宙の間に独尊たる所以なり。
-
『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段其時にこそ、出家は出家にて、殺生戒をたもつと知らるべし。俗家は俗家にて、目出度ことに魚鳥を用ひて、善なることを知らるべし。何をか疑ひ何をかあやしまん。俗と出家と混雑する者にあらず。我心易ことを以て喩ん。先四体は一つなれども、首は上に有て、足の代にはならず、足は又手の代には遣れず、口は、体を養ふ入口なれど、目の代りにならず、耳は鼻の代りに香をきかず。凡て天地の形は照然たり。因て物々、此形替に因て法あり、其物に因て法は替るなり。然らば何ぞ仏の法を以て、俗家に混雑して用ひんや。心を清すには、仏法も然るべし。身に行ひ家を斉、国天下を治る法には、儒道を以て善とせん。海川を渡には、船を以て善とす。陸地を行には、馬駕籠を以て善とす。仏法を以て世法を治めんとするは、馬駕籠にて海川をわたるに同じ。五戒を有身として、政を行ひ、罪人を殺すことは如何。又殺さずば政道立べからず。刑罰なくば政は如何。汝のいへる所は、水火を一致にせんといふが如し。一致にせば、水は湯と成り火は消べし。水火は水火と分れざれば、争世を助ん。此理如何。
-
『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段先我を離ことを修行すべし。此身このまゝにて、地水火風空なりと、一度見性する時は、我も世界の一物なり。其時に人と糠虫とはいづれが貴からん。至て賤き糠虫を助て、至て貴き人を殺ことはなるまじ。仏は無心にして、不可思議を体となす。其釈迦も、糠虫のある五穀を食し玉ふ。然れば貴者の為に、賤き者を殺すことは遁玉はず。殺生戒の源も如是。天理を知れば、戒は易く有つべし。神、仏、聖人は、いづれが師にも弟子にもあらず。皆心の欲する儘なれども、自天道なり。天理を知らずしては、何れの道にも合べからず。黙して工夫せらるべし。天道は万物を生じて、其生じたる者を以て、其生じたる物を養、其生じたる物が、其生じたるを喰ふ。