都鄙問答 / 卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段
先我ヲ離コトヲ修行スベシ、此身コノマヽニテ、地水火風空ナリト、一度見性スル時ハ、我モ世界ノ一物ナリ、其時ニ人ト糠蟲トハイヅレガ貴カラン、至テ賤キ糠蟲ヲ助テ、至テ貴キ人ヲ殺コトハナルマジ、佛ハ無心ニシテ、不可思議ヲ體トナス、其釋迦モ、糠蟲ノアル五穀ヲ食シ玉フ、然レバ貴者ノ爲ニ、賤キ者ヲ殺スコトハ遁玉ハズ、殺生戒ノ源モ如是、天理ヲ知レバ、戒ハ易ク有ツベシ、神、佛、聖人ハ、イヅレガ師ニモ弟子ニモアラズ、皆心ノ欲スル儘ナレドモ、自天道ナリ、天理ヲ知ラズシテハ、何レノ道ニモ合ベカラズ、默シテ工夫セラルベシ、天道ハ萬物ヲ生ジテ、其生ジタル者ヲ以テ、其生ジタル物ヲ養、其生ジタル物ガ、其生ジタルヲ喰フ、
新字:先我ヲ離コトヲ修行スベシ、此身コノマヽニテ、地水火風空ナリト、一度見性スル時ハ、我モ世界ノ一物ナリ、其時ニ人ト糠虫トハイヅレガ貴カラン、至テ賤キ糠虫ヲ助テ、至テ貴キ人ヲ殺コトハナルマジ、仏ハ無心ニシテ、不可思議ヲ体トナス、其釈迦モ、糠虫ノアル五穀ヲ食シ玉フ、然レバ貴者ノ為ニ、賤キ者ヲ殺スコトハ遁玉ハズ、殺生戒ノ源モ如是、天理ヲ知レバ、戒ハ易ク有ツベシ、神、仏、聖人ハ、イヅレガ師ニモ弟子ニモアラズ、皆心ノ欲スル儘ナレドモ、自天道ナリ、天理ヲ知ラズシテハ、何レノ道ニモ合ベカラズ、黙シテ工夫セラルベシ、天道ハ万物ヲ生ジテ、其生ジタル者ヲ以テ、其生ジタル物ヲ養、其生ジタル物ガ、其生ジタルヲ喰フ、
書き下し
先我を離ことを修行すべし。此身このまゝにて、地水火風空なりと、一度見性する時は、我も世界の一物なり。其時に人と糠虫とはいづれが貴からん。至て賤き糠虫を助て、至て貴き人を殺ことはなるまじ。仏は無心にして、不可思議を体となす。其釈迦も、糠虫のある五穀を食し玉ふ。然れば貴者の為に、賤き者を殺すことは遁玉はず。殺生戒の源も如是。天理を知れば、戒は易く有つべし。神、仏、聖人は、いづれが師にも弟子にもあらず。皆心の欲する儘なれども、自天道なり。天理を知らずしては、何れの道にも合べからず。黙して工夫せらるべし。天道は万物を生じて、其生じたる者を以て、其生じたる物を養、其生じたる物が、其生じたるを喰ふ。
現代語訳
「まず我を離れることを修行すべきです。この身がこのままで地・水・火・風・空であると一度見性すれば、自分も世界の一物です。そのとき人と糠虫とどちらが貴いでしょうか。ごく賤しい糠虫を助けて、ごく貴い人を殺すことはできません。仏は無心であって、不可思議を本体とします。その釈迦も糠虫のいる五穀を食べられました。ですから貴い者のために賤しい者を殺すことは避けられませんでした。殺生戒の源もこのとおりです。天理を知れば戒は易く保てます。神も仏も聖人も、どれが師でどれが弟子ということはありません。みな心の欲するままでありながら、おのずから天道です。天理を知らなければ、どの道にもかないません。黙ってよく考えなさい。天道は万物を生み、その生んだものによって生んだものを養い、生んだものが生んだものを食べるのです。」
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段万物に、天の賦し与ふる理は同じといへども、形に貴賤あり。貴きが賤きを食ふは、天の道なり。又仏氏には、草木国土悉皆成仏といへば、万物皆仏なり。然れども形に貴賤あり。貴き人間仏が、賤き五穀仏、果仏より、水火仏までを喰ふて、世界は立ものなり。此理を知らば、聖人の物を用ひ玉ふは、貴きと賤きとは礼を以て分つ、貴き者の為に、賤き者を用ゆることを知るべし。証を以ていはゞ、君は貴く臣は賤し。賤き臣、貴き君にかはり死することを聞、貴き君の、賤き臣下の身に代り死たる者を未聞。此賤きが、貴きにかはるは、天地の道にして、全君の私にあらず。聖人物を用ゆるに、礼を以てし玉ふは、即此所なり。此故に、
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『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段其時にこそ、出家は出家にて、殺生戒をたもつと知らるべし。俗家は俗家にて、目出度ことに魚鳥を用ひて、善なることを知らるべし。何をか疑ひ何をかあやしまん。俗と出家と混雑する者にあらず。我心易ことを以て喩ん。先四体は一つなれども、首は上に有て、足の代にはならず、足は又手の代には遣れず、口は、体を養ふ入口なれど、目の代りにならず、耳は鼻の代りに香をきかず。凡て天地の形は照然たり。因て物々、此形替に因て法あり、其物に因て法は替るなり。然らば何ぞ仏の法を以て、俗家に混雑して用ひんや。心を清すには、仏法も然るべし。身に行ひ家を斉、国天下を治る法には、儒道を以て善とせん。海川を渡には、船を以て善とす。陸地を行には、馬駕籠を以て善とす。仏法を以て世法を治めんとするは、馬駕籠にて海川をわたるに同じ。五戒を有身として、政を行ひ、罪人を殺すことは如何。又殺さずば政道立べからず。刑罰なくば政は如何。汝のいへる所は、水火を一致にせんといふが如し。一致にせば、水は湯と成り火は消べし。水火は水火と分れざれば、争世を助ん。此理如何。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段天台宗は止観と云ひ、真言宗は阿字本不生と云ひ、禅宗は本来面目と云ひ、念仏宗には入我我入機法一体などと云ひ、日蓮宗には妙法と云ふ。かやうに名目には替りあれども、修行熟して至る所は一なり。一事を挙げていはば、寿量無辺経に曰く、仏文殊に告げて言はく、無心無念の本仏は、不思議を以て体と為す。本去来無く、三身の性無く、十界の性無しと云ふ。然れども有に対する無には非ず。是を以て法性とはいふべし。然らば其の法性を覚るより外はなかるべし。悟れば生死の迷ひを離る。生死の迷ひを離れざれば、宗旨の法灯と成ること能はず。扨儒には、性理の至極の所に至りては、上天の載は、声も無く臭ひも無しと説き給ふ。即ち易に所謂、理を窮め性を尽くして以て命に至るとのたまふ所にて、聖人の心なり。