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都鄙問答 / 卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段

ソレニ一方ハ惡クトモ、一方ノ善ヤウニ願ヒヲカナヘ玉ハヾ、贔屓ノ沙汰ナリ、願ヒ叶フト叶ハザルトヲ、譬テ云ハヾ、親ヨリ子ニ家督ヲ讓ル如シ、子ヨリノ願ヒハイラズ、身持正シケレバ家督ヲ受、又身持放埓ナレバ、家督ヲ受ルコトアタハズ、願ヒノ成就スルモセザルモ、此ニ同ジ、天命ノ我身ニアルコトヲ知ベシ、神ノ御心ハ鏡ノ如シ、何ゾ最屓ノ私有ンヤ、ソレニ成レルコト有バ、神ノ納受ト云、是ヲ他人ハ聞テ、誰ハ何ヲ神ニ捧ラレシユヘニ、彼願ヒ叶ヘリト云、如此取沙汰スレバ、終ニハ神明ヲ、賂取ノ神ト成、穢奉ルコト、哀ニアラズヤ、是天命ヲ知ラザルユヘナリ、

新字:ソレニ一方ハ悪クトモ、一方ノ善ヤウニ願ヒヲカナヘ玉ハヾ、贔屓ノ沙汰ナリ、願ヒ叶フト叶ハザルトヲ、譬テ云ハヾ、親ヨリ子ニ家督ヲ譲ル如シ、子ヨリノ願ヒハイラズ、身持正シケレバ家督ヲ受、又身持放埓ナレバ、家督ヲ受ルコトアタハズ、願ヒノ成就スルモセザルモ、此ニ同ジ、天命ノ我身ニアルコトヲ知ベシ、神ノ御心ハ鏡ノ如シ、何ゾ最屓ノ私有ンヤ、ソレニ成レルコト有バ、神ノ納受ト云、是ヲ他人ハ聞テ、誰ハ何ヲ神ニ捧ラレシユヘニ、彼願ヒ叶ヘリト云、如此取沙汰スレバ、終ニハ神明ヲ、賂取ノ神ト成、穢奉ルコト、哀ニアラズヤ、是天命ヲ知ラザルユヘナリ、

書き下し

それに一方は悪くとも、一方の善やうに願ひをかなへ玉はゞ、贔屓の沙汰なり。願ひ叶ふと叶はざるとを、譬て云はゞ、親より子に家督を譲る如し。子よりの願ひはいらず。身持正しければ家督を受、又身持放埓なれば、家督を受ることあたはず。願ひの成就するもせざるも、此に同じ。天命の我身にあることを知べし。神の御心は鏡の如し、何ぞ最屓の私有んや。それに成れること有ば、神の納受と云。是を他人は聞て、誰は何を神に捧られしゆへに、彼願ひ叶へりと云。如此取沙汰すれば、終には神明を、賂取の神と成、穢奉ること、哀にあらずや。是天命を知らざるゆへなり。

現代語訳

「それなのに、一方には悪くても一方によいように願いをかなえられるなら、えこひいきです。願いがかなうかかなわないかを、たとえて言えば、親から子へ家督を譲るようなものです。子からの願いは要りません。身持ちが正しければ家督を受け、放埒であれば家督を受けることはできません。願いが成就するかしないかもこれと同じで、天命は自分の身の中にあると知るべきです。神の御心は鏡のようなもので、どうしてひいきの私心があるでしょうか。それなのに、うまくいけば神の納受(願いを聞き入れてくださった)と言い、それを他人が聞いて、誰それは何を神に捧げたから願いがかなったと噂する。こう取り沙汰すれば、ついには神々を賄賂取りの神にしてしまい、穢し申し上げることになります。哀れではありませんか。これは天命を知らないからです。」

解説

願いの成否を家督相続にたとえた一節です。親は子の願いによってではなく、子の身持ちを見て家督を譲る。同じように、事が成るかどうかは祈りではなく自分の行いで決まる、と梅岩は言います。「天命の我が身にあることを知るべし」は、運命を外に求めず自分の行いに見る考え方で、袁了凡の立命思想にも通じます。神を「賄賂取りの神」にしてしまう世間の噂話への批判も鋭く、成功の理由を行いではなく献金やコネに求める風潮への警告として今も通用します。

この章句が説くこと

天命家督身持ち贔屓行い

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