都鄙問答 / 卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段
或人問テ曰、今客ニ告ラルヽ如クナラバ、書ヲ講ジテ、弟子ヲ集ムル世間ノ儒者ハ、盡聖人ノ心ヲ識テ敎候ヤ、答、否シカラズ、書ヲ講ズル而已ニテ、眞ノ儒者トハ云ベカラズ、性ヲ知テ身ヲ濡ヲ儒者ト云、假令牛ニ汗シ、棟ニミツル程ノ書ヲ讀トモ、性理ニクラキ者ハ、朱子ノ所謂記誦詞章ノ俗儒ニシテ、眞儒ニアラズ、汝モ何方ニテ儒ヲ聞ルヽトモ、其目利ヲセラルベシ、目利セザレバ、客ノ云ヘル如クニ、學問ニ依テ家業疎末ニ成、不孝ノ本ヲ習テ、身ノ害ヲナスベシ、心ヲ求得テ敎ハ眞儒ナリ、孟子ノ所謂欲貴者、人ノ同心也、人々有貴於己者、弗思耳、此味ヲ知ラルベシ、
新字:或人問テ曰、今客ニ告ラルヽ如クナラバ、書ヲ講ジテ、弟子ヲ集ムル世間ノ儒者ハ、尽聖人ノ心ヲ識テ教候ヤ、答、否シカラズ、書ヲ講ズル而已ニテ、真ノ儒者トハ云ベカラズ、性ヲ知テ身ヲ濡ヲ儒者ト云、仮令牛ニ汗シ、棟ニミツル程ノ書ヲ読トモ、性理ニクラキ者ハ、朱子ノ所謂記誦詞章ノ俗儒ニシテ、真儒ニアラズ、汝モ何方ニテ儒ヲ聞ルヽトモ、其目利ヲセラルベシ、目利セザレバ、客ノ云ヘル如クニ、学問ニ依テ家業疎末ニ成、不孝ノ本ヲ習テ、身ノ害ヲナスベシ、心ヲ求得テ教ハ真儒ナリ、孟子ノ所謂欲貴者、人ノ同心也、人々有貴於己者、弗思耳、此味ヲ知ラルベシ、
書き下し
或人問て曰、今客に告らるゝ如くならば、書を講じて、弟子を集むる世間の儒者は、尽聖人の心を識て教候や。答、否しからず。書を講ずる而已にて、真の儒者とは云べからず。性を知て身を濡を儒者と云。仮令牛に汗し、棟にみつる程の書を読とも、性理にくらき者は、朱子の所謂記誦詞章の俗儒にして、真儒にあらず。汝も何方にて儒を聞るゝとも、其目利をせらるべし。目利せざれば、客の云へる如くに、学問に依て家業疎末に成、不孝の本を習て、身の害をなすべし。心を求得て教は真儒なり。孟子の所謂欲貴者、人の同心也、人々有貴於己者、弗思耳。此味を知らるべし。
現代語訳
その場にいたある人が尋ねました。「いま客人に言われたとおりなら、書を講じて弟子を集めている世間の儒者は、みな聖人の心を知って教えているのですか。」梅岩「いいえ、そうではありません。書を講じるだけで本当の儒者とは言えません。性を知って身をうるおす者を儒者と言うのです。たとえ牛が汗をかき棟に届くほどの書を読んでも、性理に暗い者は、朱子の言う記誦詞章の俗儒で、真の儒者ではありません。あなたもどこで儒学を聞くにせよ、その目利きをしなさい。目利きをしなければ、客人が言ったように、学問によって家業がおろそかになり、不孝の元を習って身の害となるでしょう。心を求め得て教えるのが真の儒者です。孟子の言う『貴からんと欲するは人の同じき心なり。人々己に貴き者有り、思わざるのみ』。この味わいを知ってください。」
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段是も儒者と思ふならん。若又聖賢の心を知らずして教儒者あらば、小人の儒にして、人の書物箱と成べし。君子の儒は、心を正し徳に至の外、他事あらんや。我が文才に伐ず、利欲名聞を離、道に志有を、君子の儒とは云なり。然るに心を知るは、古へ聖賢のことにして、今の世の者、知らるゝことに非と云は、仏氏の末法、万年と云教なり。一方にては仏氏を非、我勝手に合ば、末世は衰と云教ばかり是として、取用るは如何なることぞ。聖人は、百世も変ずとのたまふにあらずや。此理を不知して、書を講じ、人を教こと成べけんや。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答ふ、我が思ふは左には非ず。仏者には少なるべし、儒者には数も多かるべし。儒者といふは、学者のことなれども、儒は濡にて、身を濡すと云ふことなれば、此の身にて満足したる者を、儒者といふべし。孟子曰く、人々己に貴き者あり。己に貴きは心なり。心を得て満足し、身を濡す者は儒者なり。何ほどに出家多しといふとも、俗人の十分の一にも及ばず、人数少なきゆゑに、悟道の人罕なるべし。俗は数万のことなれば、身を濡す人も多からん。
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『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段足ことを知て外に望ことなきを、学問の徳とす。汝の云へる諸生は、此訣さへ知らずして、帯刀を望み、教の道を聞き得ずして、却て師の難となすは誤なり。儒者たる者も、聖賢に至ざれば、禄のことを曾思はざるにはあらず。思ふといへども、禄に志有ては、仕る者にあらずと知る。是を以て、望心を抑て、不義の禄はうけず、今日我身のある所、則天命としる。此孔子を法に取ゆへなり。此義を知らば、我職分を疎にする心有らんや。且国主より召ことあらば、我器量の拙ことを申立、先辞退すべし。豈仕ふると仕へざるとに、心を動さんや。孔子曰、沽之哉、我待賈者也。待賈のたまふは、士たる者は、礼を以て招るゝこと無ければ、飢て死すとも、
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『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段うるほすと云ことなり。身をうるほすは、心よりうるほすことを知るべし。孟子の一書も、心上より説来る。心を知る時は、志強義理照して、以て上達すべし。此心を知ずば、昏味とくらく放にして、学問に従と云とも、発明する所あるべからず。医書に、以手足痿痺為不仁。仁者は、天地万物を以て、一体の心となす。己に非と云ことなし。天地万物を己とすれば、至ざる所なし。若心を知らずば、天地と己と別々にして、気已に貫かず、手足の痿痺病人の如し。聖人は、我が心を以て天地万物を貫。凡て師たるもの、この心を知らずば、何を法として教、人の心を正んや。然るを師家に立人、心を知らずと云。夫は汝の在所などにて、書物を能読、文字を知て教れば、
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、加様の類は、深く詮議せざることなれば、早速は返答なりがたし。答、此三言は、皆我心のことなるが、其を急々に返答ならずといはゞ、書を見ること多しといふとも、何の益あらん。論語の書は、皆聖人の心なるに、其心を知らずして、何を法として身を脩、人を教られ候や。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段或る学者問うて曰く、我も学問を好む。汝は表に学問を云ひ立て、教を弘む。道は聖人の道なれば、替ること有るまじ。然れども、宋儒は孔孟の心に違ひ、老荘禅学に似て、甚だ理を高く説く。此の故に略心得がたきこと有り。汝宋儒の註は用ゆとも、定めて孔孟の本意を弘むると思ふらん。汝が教とする所、物語り有れ。得心せざる所に不審をいふべし。我が不審を開かるれば、是即ち学問なり。先づ他を導かるる所は、何れの所を至極とせらるることぞ。