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都鄙問答 / 卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段

是モ儒者ト思フナラン、若又聖賢ノ心ヲ知ラズシテ敎儒者アラバ、小人ノ儒ニシテ、人ノ書物箱ト成ベシ、君子ノ儒ハ、心ヲ正シ德ニ至ノ外、他事アランヤ、我ガ文才ニ伐ズ、利欲名聞ヲ離、道ニ志有ヲ、君子ノ儒トハ云ナリ、然ルニ心ヲ知ルハ、古ヘ聖賢ノコトニシテ、今ノ世ノ者、知ラルヽコトニ非ト云ハ、佛氏ノ末法、萬年ト云敎ナリ、一方ニテハ佛氏ヲ非、我勝手ニ合バ、末世ハ衰ト云敎バカリ是トシテ、取用ルハ如何ナルコトゾ、聖人ハ、百世モ變ズトノ玉フニアラズヤ、此理ヲ不知シテ、書ヲ講ジ、人ヲ敎コト成ベケンヤ、

新字:是モ儒者ト思フナラン、若又聖賢ノ心ヲ知ラズシテ教儒者アラバ、小人ノ儒ニシテ、人ノ書物箱ト成ベシ、君子ノ儒ハ、心ヲ正シ徳ニ至ノ外、他事アランヤ、我ガ文才ニ伐ズ、利欲名聞ヲ離、道ニ志有ヲ、君子ノ儒トハ云ナリ、然ルニ心ヲ知ルハ、古ヘ聖賢ノコトニシテ、今ノ世ノ者、知ラルヽコトニ非ト云ハ、仏氏ノ末法、万年ト云教ナリ、一方ニテハ仏氏ヲ非、我勝手ニ合バ、末世ハ衰ト云教バカリ是トシテ、取用ルハ如何ナルコトゾ、聖人ハ、百世モ変ズトノ玉フニアラズヤ、此理ヲ不知シテ、書ヲ講ジ、人ヲ教コト成ベケンヤ、

書き下し

是も儒者と思ふならん。若又聖賢の心を知らずして教儒者あらば、小人の儒にして、人の書物箱と成べし。君子の儒は、心を正し徳に至の外、他事あらんや。我が文才に伐ず、利欲名聞を離、道に志有を、君子の儒とは云なり。然るに心を知るは、古へ聖賢のことにして、今の世の者、知らるゝことに非と云は、仏氏の末法、万年と云教なり。一方にては仏氏を非、我勝手に合ば、末世は衰と云教ばかり是として、取用るは如何なることぞ。聖人は、百世も変ずとのたまふにあらずや。此理を不知して、書を講じ、人を教こと成べけんや。

現代語訳

「それも儒者だと思っているのでしょう。もし聖賢の心を知らずに教える儒者がいれば、それは小人の儒であって、人の書物箱にすぎません。君子の儒は、心を正して徳に至るほかに何があるでしょう。自分の文才を誇らず、利欲や名声から離れ、道に志すのを君子の儒と言うのです。ところが、心を知ることは昔の聖賢のことで今の世の者にはできないと言うのは、仏教の末法万年という教えと同じです。一方では仏教を非難しながら、自分の都合に合えば『末世は衰える』という教えだけを正しいとして取り入れるのは、どういうことでしょう。聖人は百世たっても変わらないとおっしゃったではありませんか。この理を知らずに書を講じ、人を教えることができるでしょうか。」

解説

「君子の儒と為れ、小人の儒と為ること無かれ」(『論語』雍也篇)を下敷きに、文字や知識だけを蓄えた学者を「人の書物箱」と呼びます。さらに、心を知るのは昔の聖人だけで今の人には無理だという諦めを、仏教の末法思想(釈迦の没後、時代が下るほど悟りが得られなくなるという考え)になぞらえて批判します。儒者が普段は仏教を排しながら、都合のよい所だけ借りる矛盾も突いています。今の人でも道に至れるという確信が、梅岩が町人に向けて講席を開いた根拠でした。

この章句が説くこと

君子小人末法

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