都鄙問答 / 卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段
水ヲ有ノ用ヲナサズ、敎ノ道モ斯ノゴトシ、コノユヘニ、心ヲ知ルヲ要トス、子曰、七十而從心所欲不踰矩ト、如是心ノ欲ル通ヲ行玉ヒ、天下ノ法ト成玉フコトハ、賢人モ及バザル所ナリ、然レ共心ヲ知ル時ハ一ナリ、譬テ云バ水ノゴトシ、聖人ハ四海ノ水、大船ヲ浮テ、天下ノ財ヲ通用シ、萬民ヲ養ガゴトシ、賢人ハ大河ノ水、一ヶ國ノ財ヲ通ハシ、一國ヲ養ガゴトシ、我等ゴトキ小人ハ、小川ノ水、五町カ七町ノ田地浸育ガゴトシ、世ヲ助ル上ニハ違アレドモ、漸ニシテ四海ニ到トキハ一ナリ、心ヲ知モ如是、聖賢ニ至ルマデハ上中下ノ替リアレドモ、學テ止ザル時ハ、終ニハ聖賢ニ到テ一ナリ、我等ゴトキハ、欲ル心ヲ抑惡ヲ懲シ、困デ勉レバ、漸ニシテ至ラルヽコトヲ知ル所ナリ、客退、
新字:水ヲ有ノ用ヲナサズ、教ノ道モ斯ノゴトシ、コノユヘニ、心ヲ知ルヲ要トス、子曰、七十而従心所欲不踰矩ト、如是心ノ欲ル通ヲ行玉ヒ、天下ノ法ト成玉フコトハ、賢人モ及バザル所ナリ、然レ共心ヲ知ル時ハ一ナリ、譬テ云バ水ノゴトシ、聖人ハ四海ノ水、大船ヲ浮テ、天下ノ財ヲ通用シ、万民ヲ養ガゴトシ、賢人ハ大河ノ水、一ヶ国ノ財ヲ通ハシ、一国ヲ養ガゴトシ、我等ゴトキ小人ハ、小川ノ水、五町カ七町ノ田地浸育ガゴトシ、世ヲ助ル上ニハ違アレドモ、漸ニシテ四海ニ到トキハ一ナリ、心ヲ知モ如是、聖賢ニ至ルマデハ上中下ノ替リアレドモ、学テ止ザル時ハ、終ニハ聖賢ニ到テ一ナリ、我等ゴトキハ、欲ル心ヲ抑悪ヲ懲シ、困デ勉レバ、漸ニシテ至ラルヽコトヲ知ル所ナリ、客退、
書き下し
水を有の用をなさず。教の道も斯のごとし。このゆへに、心を知るを要とす。子曰、七十而従心所欲不踰矩と。如是心の欲る通を行玉ひ、天下の法と成玉ふことは、賢人も及ばざる所なり。然れ共心を知る時は一なり。譬て云ば水のごとし。聖人は四海の水、大船を浮て、天下の財を通用し、万民を養がごとし。賢人は大河の水、一ヶ国の財を通はし、一国を養がごとし。我等ごとき小人は、小川の水、五町か七町の田地浸育がごとし。世を助る上には違あれども、漸にして四海に到ときは一なり。心を知も如是。聖賢に至るまでは上中下の替りあれども、学て止ざる時は、終には聖賢に到て一なり。我等ごときは、欲る心を抑悪を懲し、困で勉れば、漸にして至らるゝことを知る所なり。客退。
現代語訳
「水をためる役に立ちません。教えの道もこれと同じです。だから心を知ることが肝要なのです。孔子は『七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず』とおっしゃいました。このように心の欲するままに行って天下の手本となられたことは、賢人も及ばないところです。けれども心を知るという点では一つです。水にたとえましょう。聖人は四海の水で、大船を浮かべて天下の財を行き渡らせ、万民を養うようなものです。賢人は大河の水で、一国の財を通わせ、国を養うようなものです。私たちのような小人は小川の水で、五町か七町の田を潤すようなものです。世を助ける大きさには違いがありますが、しだいに海に至れば一つです。心を知ることもこのようで、聖賢に至るまでは上中下の違いがありますが、学んでやめなければ、ついには聖賢に至って一つになります。私たちは欲する心を抑え、悪を懲らしめ、苦しみながら努めれば、しだいに至ることができると知っているのです。」客は退きました。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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