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都鄙問答 / 卷之一・孝ノ道ヲ問ノ段

曰、孝經父有爭子、則身不陷於不義、故當不義則子不可以不爭於父ト、爭トキニハ、如何ゾ溫和ナルベキ、父母ニ不義アルトキ爭コトハ、聖人トイヘドモ有ルコトナリ、我爭モ是ニ效リ、去冬伯父ガ方ヨリ、銀子借用ニ來シトキ、親ドモ貸度思コトハコレ不義ナリ、伯父モ前方トハ違、勝手モ貧、何返ト、タシカニ心當ナキコトナリ、其返覺モナキ所ヘ、積ナク貸ト云ハ、前後ノ辨ナキコトナリ、加樣ナル不義ヲ云ルヽトキハ、親トイヘドモ、爭ズバ有ベカラズ、タトヒ父母如何樣ニ云ヘバトテ、家ノ害アルコトハ成難候、我貸ザルハ、後々ニ至テ、親ニ不自由ヲサセマジキ爲ナリ、手前ニ損アル實ノ孝ト云フベシ、其ウヘ衣類食物ハ、望ノ通ニイタサセ、遊興物參等、心任ニ致コトナレバ、大槩ノ孝行ハ致シ候、但雪中ニ笋拔程ノコトナケレバ、孝行ノ至トハ云ザルコトニ候ヤ、

新字:曰、孝経父有争子、則身不陥於不義、故当不義則子不可以不争於父ト、争トキニハ、如何ゾ温和ナルベキ、父母ニ不義アルトキ争コトハ、聖人トイヘドモ有ルコトナリ、我争モ是ニ効リ、去冬伯父ガ方ヨリ、銀子借用ニ来シトキ、親ドモ貸度思コトハコレ不義ナリ、伯父モ前方トハ違、勝手モ貧、何返ト、タシカニ心当ナキコトナリ、其返覚モナキ所ヘ、積ナク貸ト云ハ、前後ノ弁ナキコトナリ、加様ナル不義ヲ云ルヽトキハ、親トイヘドモ、争ズバ有ベカラズ、タトヒ父母如何様ニ云ヘバトテ、家ノ害アルコトハ成難候、我貸ザルハ、後々ニ至テ、親ニ不自由ヲサセマジキ為ナリ、手前ニ損アル実ノ孝ト云フベシ、其ウヘ衣類食物ハ、望ノ通ニイタサセ、遊興物参等、心任ニ致コトナレバ、大槩ノ孝行ハ致シ候、但雪中ニ笋抜程ノコトナケレバ、孝行ノ至トハ云ザルコトニ候ヤ、

書き下し

曰く、孝経に、父に争子有れば、則ち身不義に陥らず、故に不義に当たれば則ち子以て父に争はざるべからず、と。争ふときには、如何ぞ温和なるべき。父母に不義あるとき争ふことは、聖人といへども有ることなり。我が争ひも是に效へり。去る冬伯父が方より、銀子借用に来たりしとき、親ども貸したく思ふことはこれ不義なり。伯父も前方とは違ひ、勝手も貧しく、何に返すと、たしかに心当てなきことなり。其の返す覚えもなき所へ、積もりなく貸すと云ふは、前後の弁なきことなり。加様なる不義を云はるるときは、親といへども、争はずば有るべからず。たとひ父母如何様に云へばとて、家の害あることは成りがたく候。我が貸さざるは、後々に至りて、親に不自由をさせまじき為なり。手前に損ある実の孝と云ふべし。其のうへ衣類食物は、望みの通りにいたさせ、遊興物参等、心任せに致すことなれば、大槩の孝行は致し候。但し雪中に笋を抜く程のことなければ、孝行の至りとは云はざることに候や。

現代語訳

問う人は言いました。「孝経に『父に諫める子があれば、父は不義に陥らない。だから不義に当たっては、子は父を諫めずにいられない』とあります。諫めるときにどうして穏やかでいられましょう。父母に不義があるとき諫めるのは、聖人でもあることです。私が争ったのもこれにならったのです。去年の冬、伯父のところから銀を借りに来たとき、親たちが貸したいと思ったのは不義です。伯父は以前とは違って暮らし向きも苦しく、何で返すのか確かな当てもありません。返す見込みもないところへ考えもなく貸すのは、分別のないことです。このような不義を言われたときは、親でも諫めずにはいられません。たとえ父母がどう言おうと、家に害のあることはできません。私が貸さなかったのは、後々親に不自由をさせないためです。自分の側に損のある、本当の孝行と言うべきです。そのうえ着る物や食べ物は望みどおりにさせ、遊びや寺社参りも思いのままにさせているのですから、たいていの孝行はしています。ただ、雪の中で筍を掘り当てるほどのことをしていないので、孝行の極みとは言えないのでしょうか。」

解説

問う人は孝経の諫争章を持ち出して、自分の行いを正当化します。返す当てのない伯父に貸すのは不義であり、それを止めたのは家を守る本当の孝行だ、という理屈です。衣食も遊びも親の望みどおりにしているとも言います。「雪中に笋を抜く」は、冬に筍を食べたいという母のために竹林で泣いたら筍が生えたという孟宗の故事で、二十四孝の一つです。古典の言葉を引いて自分を正しいとする論法は、一見筋が通っています。梅岩が次に問題にするのは、その読み方でした。

この章句が説くこと

孝経諫争不義孟宗倹約

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