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都鄙問答 / 卷之一・都鄙問答ノ段

曰、汝ノ云ヘル行ヒト云ハ、禮儀三千三百ヲ習ヒ、威儀ヲ正スルコトニ候ヤ、左樣ノコトナレバ、我ラ如キ農人ナドノ行フコトハ、叶ザル所ナリ、彼學者ノ云ゴトク、不學者ノ及ベキコトニ非ト云ルモ、斷ナリ、答、否、左ニハアラズ、汝ノ云ヘルハ、孔子子張ヲ謂テ、師ハ辟ナリトノ玉フ所ナリ、辟トノ玉フハ、威儀ニ習テ實少ヲ云、行ヒノコトヲ、汝ガ聞易所ニテ語ン、行ヒト云ハ、農人ナラバ、朝ハ未明ヨリ農ニ出デ、夕ニハ星ヲ見テ家ニ入、我身ヲ勞シテ人ヲ使ヒ、春ハ耕シ、夏ハ芸、秋ノ藏ニ至マデ、田畠ヨリ、五穀一粒ナリトモ、ヲヽク作出コトヲ忘ズ、御年貢ニ不足ナキヤウニト思ヒ、其餘ニテ父母ノ衣食ヲ足シ、安樂ニ養、諸事油斷ナク勉時ハ、身ハ苦勞ストイヘドモ、邪ナキユヘニ心ハ安樂ナリ、身ヲ肆ニシ、年貢不足スル時ハ、心ノ苦ト成、我敎所ハ、心ヲ知テ、身ヲ苦勞シ勉レバ、日々ニ安樂ニ至コトヲ知シム、心ヲ知テ行トキハ、自威儀正クナリ、安ヲ知ルコトナレバ、何ヲカ疑ンヤ、

新字:曰、汝ノ云ヘル行ヒト云ハ、礼儀三千三百ヲ習ヒ、威儀ヲ正スルコトニ候ヤ、左様ノコトナレバ、我ラ如キ農人ナドノ行フコトハ、叶ザル所ナリ、彼学者ノ云ゴトク、不学者ノ及ベキコトニ非ト云ルモ、断ナリ、答、否、左ニハアラズ、汝ノ云ヘルハ、孔子子張ヲ謂テ、師ハ辟ナリトノ玉フ所ナリ、辟トノ玉フハ、威儀ニ習テ実少ヲ云、行ヒノコトヲ、汝ガ聞易所ニテ語ン、行ヒト云ハ、農人ナラバ、朝ハ未明ヨリ農ニ出デ、夕ニハ星ヲ見テ家ニ入、我身ヲ労シテ人ヲ使ヒ、春ハ耕シ、夏ハ芸、秋ノ蔵ニ至マデ、田畠ヨリ、五穀一粒ナリトモ、ヲヽク作出コトヲ忘ズ、御年貢ニ不足ナキヤウニト思ヒ、其余ニテ父母ノ衣食ヲ足シ、安楽ニ養、諸事油断ナク勉時ハ、身ハ苦労ストイヘドモ、邪ナキユヘニ心ハ安楽ナリ、身ヲ肆ニシ、年貢不足スル時ハ、心ノ苦ト成、我教所ハ、心ヲ知テ、身ヲ苦労シ勉レバ、日々ニ安楽ニ至コトヲ知シム、心ヲ知テ行トキハ、自威儀正クナリ、安ヲ知ルコトナレバ、何ヲカ疑ンヤ、

書き下し

曰く、汝の云へる行ひと云ふは、礼儀三千三百を習ひ、威儀を正することに候や。左様のことなれば、我ら如き農人などの行ふことは、叶はざる所なり。彼の学者の云ふごとく、不学者の及ぶべきことに非ずと云へるも、断りなり。答ふ、否、左にはあらず。汝の云へるは、孔子子張を謂ひて、師は辟なりとのたまふ所なり。辟とのたまふは、威儀に習ひて実少なきを云ふ。行ひのことを、汝が聞き易き所にて語らん。行ひと云ふは、農人ならば、朝は未明より農に出で、夕べには星を見て家に入り、我が身を労して人を使ひ、春は耕し、夏は芸り、秋の蔵むるに至るまで、田畠より、五穀一粒なりとも、をほく作り出だすことを忘れず、御年貢に不足なきやうにと思ひ、其の余りにて父母の衣食を足し、安楽に養ひ、諸事油断なく勉むる時は、身は苦労すといへども、邪なきゆへに心は安楽なり。身を肆にし、年貢不足する時は、心の苦と成る。我が教ふる所は、心を知りて、身を苦労し勉むれば、日々に安楽に至ることを知らしむ。心を知りて行ふときは、自ら威儀正しくなり、安きを知ることなれば、何をか疑はんや。

現代語訳

故郷の者は言いました。「あなたの言う行いとは、三千三百の礼儀作法を習って、立ち居振る舞いを正すことですか。そういうことなら、私たち農民などにできることではありません。あの学者が、学問のない者の及ぶところではないと言ったのももっともです。」梅岩は答えました。「いいえ、そうではありません。あなたの言うのは、孔子が子張について『師(子張)は偏っている』と言われたことです。偏っているとは、作法ばかり習って中身の少ないことを言います。行いのことを、あなたに分かりやすいところでお話ししましょう。行いとは、農民なら、朝はまだ暗いうちから野良に出て、夕方には星を見て家に帰り、自分の身を働かせて人を使い、春は耕し、夏は草を取り、秋の取り入れに至るまで、田畑から五穀を一粒でも多く作り出すことを忘れず、年貢に不足のないようにと思い、その余りで父母の衣食を満たして安楽に養い、何事にも油断なく努めることです。そうすれば身は苦労しても、よこしまなところがないので心は安楽です。身を勝手気ままにして年貢が不足すれば、それが心の苦しみになります。私の教えるのは、心を知って身を苦労させて努めれば、日々に安楽に至るということです。心を知って行えば、おのずから振る舞いも正しくなり、安らかさを知ることなのですから、何を疑うことがありましょう。」

解説

行いとは礼儀作法の習得か、という問いに、梅岩は論語先進篇の「師や辟なり」を引き、作法ばかりで中身の少ないことだと退けます。そして農民の行いを具体的に描きます。未明に田に出て星を見て帰り、五穀を一粒でも多く作り、年貢を欠かさず、残りで父母を養う。身は苦労しても心は安楽だと言います。心学の「行い」とは特別な修養ではなく、自分の職分を誠実に果たすことそのものでした。心を知って行えば作法も自然に整う、という順序の示し方も大切です。

この章句が説くこと

行い職分農人威儀安楽勤勉

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