歎異抄 / 後序
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候いけり。 まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり。
書き下し
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候いけり。 まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり。
現代語訳
だからこそ、かたじけなくも、わが身に引き当てて、私たちが自分の罪の深さも知らず、如来の恩の高さも知らずに迷っていることを、思い知らせようとされたのであった。まことに、如来の恩ということについては顧みることなく、私たちはみな、ただ人の善し悪しばかりを言い合っている。
解説
親鸞自身の告白が、実は聞く者一人ひとりへの語りかけであったという構図が示される。それにもかかわらず、人は自分に向けられた恵みの大きさよりも、他人の良し悪しを評価することにばかり気を取られがちだと指摘される。誰かの言動を評価する前に、自分自身が受けている恩の大きさに目を向けているかどうかが問われている。
この章句が説くこと
如来の御恩罪悪の自覚善悪の詮索至誠
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歎異抄・後序聖人の常の仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候いしことを、 今また案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」という金言に、少しも違わせおわしまさず。
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