歎異抄 / 後序
露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと歎き存じ候いて、 かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。
新字:露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと嘆き存じ候いて、 かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。
書き下し
露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと歎き存じ候いて、 かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。
現代語訳
露のようにはかない命が、わずかに枯れ草のようなこの身にかかっているうちにこそ、ともに歩んでくださる人々の御不審にもお答えし、聖人が仰せになったお言葉の趣旨をも申し聞かせてまいりましたが、私が目を閉じたのちには、さぞかし教えが乱れることであろうと歎かわしく思い、このように様々な異なる主張をなさる人々に出会って、言い惑わされるようなことがあったときには、亡き聖人のお心にかない、お用いになった聖なる教えの数々を、よくよくご覧になるべきである。
解説
自分が生きている間は教えを正しく伝えられても、自分が世を去ったのちに教えがどう変わっていくかは分からない、という著者の切実な不安がにじむ箇所である。だからこそ、特定の誰かの言葉や解釈に頼りきるのではなく、根本の聖典そのものに立ち返ることを勧めている。誰かに依存せず、自分自身で拠り所を確かめる習慣の大切さが示唆されている。
この章句が説くこと
遺言聖教への回帰信心の乱れへの憂い