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歎異抄 / 後序

そのゆえは、「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」と仰せの候いければ、 勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかに争いたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」と候いければ、 「聖人の御智慧才覚博くおわしますに、一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心においては全く異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、 なお「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細を申し上げければ、

書き下し

そのゆえは、「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」と仰せの候いければ、 勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかに争いたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」と候いければ、 「聖人の御智慧才覚博くおわしますに、一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心においては全く異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、 なお「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細を申し上げければ、

現代語訳

そのわけは、『善信(親鸞)の信心も、聖人(法然)の御信心も一つである』と親鸞が仰せになったところ、勢観房や念仏房といった同門の人々が、とんでもないと言って争い、『どうして聖人の御信心と善信房の信心とが一つであるはずがあろうか』と言ったので、親鸞は『聖人の御智慧や才覚は広くいらっしゃるので、それと同じだと申し上げれば、それはたしかに間違いになろうが、往生のための信心においてはまったく異なるところがなく、ただ一つなのである』とお答えになったけれども、それでもなお『どうしてそんな道理があろうか』という反論があったので、結局のところ聖人ご自身の前で、どちらが正しいかを決めることになり、この事の次第を申し上げたのであった。

解説

才知や経験には明らかな差があっても、往生のよりどころとなる信心そのものには優劣も差もないという主張が、周囲の反発を招く場面である。人は経験や知識の差をそのまま信仰の深さの差だと思い込みがちだが、ここではその前提そのものが問い直されている。立場や経験の違いを超えて、根本のところでは対等であるという視点は、様々な人間関係にも通じるものがある。

この章句が説くこと

信心一つ師弟の対等論争

この一句を、あなたの毎日に。

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