歎異抄 / 第十八条
かつはまた檀波羅蜜の行とも言いつべし。 いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心欠けなばその詮なし。 一紙半銭も仏法の方に入れずとも、他力に心をなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候わめ。 すべて仏法に事を寄せて世間の欲心もあるゆえに、同朋を言いおどさるるにや。
書き下し
かつはまた檀波羅蜜の行とも言いつべし。 いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心欠けなばその詮なし。 一紙半銭も仏法の方に入れずとも、他力に心をなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候わめ。 すべて仏法に事を寄せて世間の欲心もあるゆえに、同朋を言いおどさるるにや。
現代語訳
あるいはまた、これは布施の行いだとも言えるだろう。しかし、どれほど宝物を仏前に投げ出し、師匠に施したとしても、信心が欠けていれば、それは何の意味もない。たとえ一枚の紙、一銭さえも仏法のために納めなくても、他力に心を投げ入れて信心が深いならば、それこそが願の本意にかなうことである。すべて仏法にかこつけて、世間の欲得の心があるからこそ、同じ仲間を脅すようなことをするのではないか。
解説
どれだけ寄進しても信心が伴わなければ意味がなく、逆に何も差し出せなくても信心が深ければそれで十分だという、はっきりとした基準が示される。何かを差し出すことで安心を買おうとする発想や、経済力の差を信仰の深さのように見せかける振る舞いへの戒めは、現代の様々な場面にも通じるものがある。持てるものの多寡ではなく、心の向け方こそが問われているという原則を、この条は静かに繰り返している。
この章句が説くこと
信心と布施欲心檀波羅蜜