歎異抄 / 第十六条
信心定まりなば往生は弥陀に計らわれまいらせてすることなれば、わが計らいなるべからず。 悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出でくべし。 すべて万の事につけて往生には賢き思いを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、常は思い出しまいらすべし。 しかれば念仏も申され候。これ自然なり。 わが計らわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。 しかるを、自然ということの別にあるように、我物知り顔に言う人の候由承る、浅ましく候なり。
書き下し
信心定まりなば往生は弥陀に計らわれまいらせてすることなれば、わが計らいなるべからず。 悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出でくべし。 すべて万の事につけて往生には賢き思いを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、常は思い出しまいらすべし。 しかれば念仏も申され候。これ自然なり。 わが計らわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。 しかるを、自然ということの別にあるように、我物知り顔に言う人の候由承る、浅ましく候なり。
現代語訳
信心が定まったならば、往生は阿弥陀のお計らいによって成し遂げられることであるから、自分のはからいであってはならない。悪いことがあったとしても、いよいよ願力を仰ぎ申し上げるならば、おのずからの道理によって、穏やかで人に耐え忍ぶ心も生まれてくるはずである。すべての物事について、往生には賢しらな考えを差し挟まず、ただうっとりと阿弥陀の恩の深く重いことを、常に思い出すべきである。そうすれば、念仏も自然と称えられる。これが自然である。自分がはからわないことを自然というのである。これがすなわち他力なのである。それなのに、『自然』ということが何か特別なもののようであるかのように、物知り顔で語る人がいると聞くが、浅ましいことである。
解説
立派な心を意図的に作り出そうとするよりも、恩の深さをただ思い続けるうちに、自然と穏やかな心が生まれてくるという順序が語られる。「自然」という言葉を、何か特別な悟りの境地のように誇る人への戒めも添えられており、他力とはことさら特別なものではなく、はからいを手放したところにおのずと現れるものだと示される。
この章句が説くこと
自然法爾他力はからいを手放す