歎異抄 / 第十三条
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、 当時は後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に貼り文をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。 願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよおすゆえなり。 されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候え。
書き下し
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、 当時は後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に貼り文をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。 願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよおすゆえなり。 されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候え。
現代語訳
『しかるべき業縁がめぐってくれば、どのような振る舞いもしてしまうものだ』とこそ、聖人は仰せになっていたのに、今の世では後生を願う者らしく振る舞って、善人ばかりが念仏を申すべきであるかのように、道場に貼り紙をして『何々をした者は道場へ入ってはならない』などということ、これはひとえに賢く清らかな姿を外に示しながら、内には偽りを抱いているのではないか。願にほこってつくる罪も、宿業のなせるわざである。だからこそ、善いことも悪いことも、すべて業の報いに任せて、ひとえに本願をたのみ申し上げることこそが、他力なのである。
解説
外面だけ立派に振る舞い、内心では別のことを抱えているという偽善への鋭い批判がここにある。誰しも人前では体裁を整えたくなるものだが、その体裁づくりが度を越すと、本当に大切なことを見失わせる。ある行いを表向き禁じることで安心を得ようとする態度そのものが、実は他力への信頼から遠ざかっているという指摘は重い。
この章句が説くこと
賢善精進偽善への戒め業報にまかせる