歎異抄 / 第十四条
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて悪業をおかし、念仏申さずして終わるとも、すみやかに往生を遂ぐべし。 また念仏の申されんも、ただ今さとりを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候わめ。 罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念といのる人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。
書き下し
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて悪業をおかし、念仏申さずして終わるとも、すみやかに往生を遂ぐべし。 また念仏の申されんも、ただ今さとりを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候わめ。 罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念といのる人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。
現代語訳
摂め取って捨てないという願をたのみ申し上げるならば、どのような思いがけない出来事に遭って悪業をおかし、念仏を称えられないまま終わったとしても、速やかに往生を遂げるはずである。また念仏が称えられるとしても、それは今まさにさとりを開くべき時が近づくにつれて、いよいよ阿弥陀をたのみ、その恩に報いようとする心の表れにほかならない。罪を滅ぼそうと思うのは自力の心であって、臨終に心を正しく保とうと祈る人の本意であるから、そこには他力の信心がないのである。
解説
最期まで完璧に念仏を称え続けられるかどうかという不安への答えは、「摂め取って捨てない」という約束そのものに委ねることにある。念仏を称えられたかどうかという結果ではなく、その約束を信じられているかどうかが問われている。最後まで自分の努力でやり遂げなければならないという発想からいったん離れ、すでに支えられているという安心のほうに軸足を移す視点である。
この章句が説くこと
摂取不捨自力の心臨終正念