歎異抄 / 第十四条
いまだ我らが信ずるところに及ばず。 そのゆえは、弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば、すでに定聚の位におさめしめたまいて、命終すれば、諸の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。 「この悲願ましまさずは、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべき」と思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」と思うべきなり。
書き下し
いまだ我らが信ずるところに及ばず。 そのゆえは、弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば、すでに定聚の位におさめしめたまいて、命終すれば、諸の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。 「この悲願ましまさずは、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべき」と思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」と思うべきなり。
現代語訳
いまだ私たちが信じているところには及ばない。なぜなら、阿弥陀の光明に照らされることによって、一念の信心が起こるとき、金剛のように堅固な信心を賜るのであれば、すでに必ず往生する仲間の位に収められており、命が終われば、もろもろの煩悩や悪しき障りを転じて、無生忍というさとりを得させていただけるのである。『この悲願がなければ、これほど浅ましい罪人が、どうして迷いの世界から解き放たれようか』と思って、一生の間称える念仏は、すべて『如来の大いなる慈悲の恩に報い、その徳に感謝する』ものと思うべきなのである。
解説
信心が定まった瞬間にすでに往生が定まっているという理解のほうが、罪を一つひとつ滅していくという説明よりも深いのだと示される。念仏を、罪を消すための作業としてではなく、すでに受けた恩への感謝の表れとして捉え直す視点である。何かを得るための行為ではなく、すでに与えられたものへの応答として日々の行いを見つめ直すきっかけになるだろう。
この章句が説くこと
金剛の信心如来大悲の恩感謝としての行い