歎異抄 / 第十六条
信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。 一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。 その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。
書き下し
信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。 一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。 その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。
現代語訳
信心の行者が、日常のふとした拍子に腹を立てたり、よくない振る舞いをしたり、仲間や友との間で口論をしたりしたときには、必ず心を改めるべきだということ。この件は、悪をやめて善を修めるという考え方に近いものである。ひたすら念仏する人においては、心を改めるということはただ一度きりであるべきである。その心の改めとは、日ごろ本願他力の真実の教えを知らなかった人が、阿弥陀の智慧をいただいて、『これまでの心のままでは往生はかなわない』と思い、もとの心をひるがえして、本願をたのみ申し上げることをこそ、心の改めと申すのである。
解説
腹を立てるたびに、その都度心を入れ替えなければ救われないという発想は、実は自力で自分を磨き上げようとする姿勢に近く、他力の教えとはずれていると指摘される。人は一度信じたからといって、二度と腹を立てたり間違ったりしなくなるわけではない。感情の波を完全になくすことを目標にするのではなく、根本の依りどころが一度定まっていることの意味が語られている。
この章句が説くこと
廻心断悪修善本願他力