歎異抄 / 第十五条
おおよそ今生においては煩悩・悪障を断ぜんこと、極めてありがたき間、真言・法華を行ずる浄侶、なおもって順次生のさとりをいのる。 いかにいわんや戒行・恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海を渡り、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく霽れ、法性の覚月すみやかに現れて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候え。
書き下し
おおよそ今生においては煩悩・悪障を断ぜんこと、極めてありがたき間、真言・法華を行ずる浄侶、なおもって順次生のさとりをいのる。 いかにいわんや戒行・恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海を渡り、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく霽れ、法性の覚月すみやかに現れて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候え。
現代語訳
そもそも今生において煩悩や悪しき障りを断ち切ることは、きわめて難しいことであるから、真言や法華を修行する清らかな僧侶でさえ、なお次の生でのさとりを願っている。まして戒律を守る行いも智慧の理解もともに持たない身でありながら、阿弥陀の願いという船に乗って迷いの苦しみの海を渡り、真実の浄土の岸にたどり着いたならば、煩悩という黒雲は速やかに晴れ、真理を悟る月がすみやかに現れて、あらゆる方角を照らす妨げのない光明と一つになって、すべての衆生を利益するそのときにこそ、さとりというべきである。
解説
修行に生涯を捧げる清らかな僧侶でさえ、今生での完全な悟りは難しいと述べたうえで、それに満たない普通の人間が浄土に至って初めて得られる境地こそが真のさとりだと語られる。今すぐ完璧な境地に達しなければならないという焦りから、少し肩の力を抜かせてくれる箇所でもある。到達できていない自分を責める前に、道の途中であることを許してよいのだと教えてくれる。
この章句が説くこと
願船苦海報土のさとり