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歎異抄 / 第十五条

この身をもってさとりを開くと候なる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候にや。これをこそ今生にさとりを開く本とは申し候え。 和讃にいわく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とは候えば、信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をば隔て候ぞかし。 かくのごとく知るを、さとるとは言い紛らかすべきや。あわれに候をや。 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば開くとならい候ぞ」とこそ、故聖人の仰せには候いしか。

書き下し

この身をもってさとりを開くと候なる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候にや。これをこそ今生にさとりを開く本とは申し候え。 和讃にいわく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とは候えば、信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をば隔て候ぞかし。 かくのごとく知るを、さとるとは言い紛らかすべきや。あわれに候をや。 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば開くとならい候ぞ」とこそ、故聖人の仰せには候いしか。

現代語訳

この身のままでさとりを開くという人は、釈尊のようにさまざまな姿を現し、三十二相・八十随形好という優れた身の特徴を備えて、人々に説法して利益をもたらしているのだろうか。それをこそ、今生でさとりを開いたしるしと申すべきである。和讃にいうように、『金剛のように堅固な信心が定まるときを待ち受けて、阿弥陀の心の光がお護りくださり、永く迷いの生死を隔てる』とあるのだから、信心が定まったそのときに一度摂め取られて捨てられることがなければ、迷いの世界を輪廻することはなく、それゆえ永く生死を隔てるのである。このように知ることを、さとると言い紛らわしてよいものだろうか。なんとも痛ましいことである。『浄土真宗では、今生において本願を信じて、かの浄土においてさとりを開くと教えられている』とこそ、亡き聖人は仰せになっていた。

解説

今生で悟りを開いたと自称するなら、釈尊のように誰の目にも明らかな姿や働きを示すはずだが、そのような証拠もなく「悟った」と言うのは言葉の混同にすぎないと厳しく指摘される。信心が定まることと、悟りを開くこととは同じではなく、浄土真宗では悟りは来世で開かれるものだと明確に線が引かれる。手近な言葉で自分の到達点を誇張してしまうことへの戒めでもある。

この章句が説くこと

さとりの混同信心決定浄土真宗の教え

この一句を、あなたの毎日に。

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