歎異抄 / 第十五条
煩悩具足の身をもって、すでにさとりを開くということ。この条、もってのほかの事に候。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これ皆、難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。 来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
書き下し
煩悩具足の身をもって、すでにさとりを開くということ。この条、もってのほかの事に候。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これ皆、難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。 来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
現代語訳
煩悩に満ちたこの身のままで、すでにさとりを開くということ。この件は、まったくもってのほかのことである。即身成仏は真言密教の本意であり、三密の修行の証しである。六根清浄はまた法華経の教えであり、四つの安楽の行の功徳である。これらはみな、難行にして優れた素質の者の務めであり、観念を成就させたさとりである。それに対して、来世で目覚めるというのは、他力浄土の宗旨であり、信心が定まることによる道であるからである。これはまた易行であって、劣った素質の者の務めであり、善悪を選ばない教えである。
解説
「悟りを開く」という言葉は禅や真言・法華の教えの中で使われるものであり、浄土真宗のいう救いとは、そもそも仕組みが異なることが確認される。今生きているうちに完全な境地に到達しようとする道と、来世で目覚めることを信じて委ねる道とは、混同してはならない別の道である。他の教えの言葉をそのまま借りて自分の信仰を語ろうとすると、本来の意味からずれてしまうことがあるという注意でもある。
この章句が説くこと
即身成仏来生の開覚難行と易行