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歎異抄 / 第十三条

『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候ぞかし。 本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽くして後、本願を信ぜんのみぞ、願にほこる思いもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。 本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。

書き下し

『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候ぞかし。 本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽くして後、本願を信ぜんのみぞ、願にほこる思いもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。 本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。

現代語訳

『唯信抄』にも、『阿弥陀仏がどれほどの力をお持ちであるかを知っていながら、罪深い身だから救われがたいと思うべきだろうか』とある。本願を誇る心があるからこそ、他力にすがる信心も確かなものになるのである。そもそも悪業や煩悩をすべて断ち尽くしたうえで本願を信じるというのであれば、願を誇る思いもなくてよいはずだが、煩悩を断ち尽くしたならばそのまま仏になってしまい、それでは仏のために五劫という長い時をかけて思案された本願も、意味がなくなってしまうだろう。『本願ぼこり』を戒める人々もまた、煩悩や不浄を抱えたままであるようだ。それもまた、願に誇っているのではないか。いったいどのような悪を本願ぼこりといい、どのような悪ならばほこりにならないというのか。かえって未熟な考えではないか。

解説

罪深さを理由に救いをためらう必要はなく、むしろ本願の大きさに素直に頼ろうとする心こそが信心の確かさにつながるという逆説が語られる。煩悩を完全になくしてから信じようとするなら、そもそも本願そのものが不要になってしまうという指摘は鋭い。自分を戒める人自身も同じ煩悩を抱えているという指摘は、他人を裁く前に自分自身を省みる視点を促してくれる。

この章句が説くこと

唯信抄本願を誇る煩悩具足

この一句を、あなたの毎日に。

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