歎異抄 / 第十四条
念仏申さんごとに罪を滅ぼさんと信ぜば、すでに我と罪を消して往生せんと励むにてこそ候なれ。 もししからば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆にあらざることなければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。 ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛をせめて正念に住せずして終わらん、念仏申すこと難し。 その間の罪は、いかがして滅すべきや。罪消えざれば往生はかなうべからざるか。
書き下し
念仏申さんごとに罪を滅ぼさんと信ぜば、すでに我と罪を消して往生せんと励むにてこそ候なれ。 もししからば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆にあらざることなければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。 ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛をせめて正念に住せずして終わらん、念仏申すこと難し。 その間の罪は、いかがして滅すべきや。罪消えざれば往生はかなうべからざるか。
現代語訳
念仏を称えるたびに罪を滅ぼそうと信じるのならば、それはすでに自分の力で罪を消して往生しようと励んでいることになる。もしそうであれば、一生の間、思うことすべてが迷いの絆にほかならないのだから、命が尽きるまで念仏を絶やさずに称え続けてこそ往生できることになる。ただし、人の因縁には限りがあるものだから、思いがけない出来事にあったり、病の苦しみに責められて心を正しく保てないまま終わることもあり、そうなれば念仏を称えることも難しくなる。その間の罪は、どうやって滅すればよいのか。罪が消えなければ、往生はかなわないということになるのか。
解説
もし念仏の効果を「罪を消すこと」だと考えてしまうと、最期の瞬間まで正しく念仏を称え続けられるかどうかという不安につきまとわれることになる。人は病や不慮の出来事によって、思うように行動できなくなることがある。ここでは、そうした人間の弱さや不確かさを正面から見据えたうえで、次の段でその不安への答えが示されていく。
この章句が説くこと
自力の罪消し臨終の不安業報の限り
関連する章句
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歎異抄・第十四条摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて悪業をおかし、念仏申さずして終わるとも、すみやかに往生を遂ぐべし。 また念仏の申されんも、ただ今さとりを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候わめ。 罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念といのる人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。
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歎異抄・第十四条「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ。 この条は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。 これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念といえるか。滅罪の利益なり。
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歎異抄・第十一条次に自らの計らいをさしはさみて、善悪の二つにつきて、往生の助け・障り、二様に思うは、誓願の不思議をばたのまずして、わが心に往生の業を励みて、申すところの念仏をも自行になすなり。この人は、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。 信ぜざれども、辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議の力なり。 これすなわち誓願不思議のゆえなれば、ただ一つなるべし。
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歎異抄・第十六条一切の事に朝・夕に廻心して、往生を遂げ候べくば、人の命は、出ずる息、入る息を待たずして終わることなれば、廻心もせず、柔和忍辱の思いにも住せざらん前に命つきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおわしますべきにや。 口には「願力をたのみたてまつる」と言いて、心には「さこそ悪人を助けんという願不思議にましますというとも、さすが善からん者をこそ助けたまわんずれ」と思うほどに、願力を疑い他力をたのみまいらする心欠けて、辺地の生を受けんこと、もっとも歎き思いたまうべきことなり。
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歎異抄・第一条「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。