歎異抄 / 第十三条
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきや。 かかる浅ましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられ候え。 さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられ候わじものを。 また、「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。
書き下し
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきや。 かかる浅ましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられ候え。 さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられ候わじものを。 また、「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。
現代語訳
戒律を守ることによってのみ本願を信じられるというのであれば、私たちはどうして迷いの世界を離れることができようか。これほど浅ましい身であっても、本願に出会えばこそ、まことに誇らしく思われるのである。だからといって、自分にもともと備わっていない悪業は、まさか作られることもないだろう。また『海や川に網を引き、釣りをして世を渡る者も、野山で獣を狩り鳥を捕らえて命をつなぐ者も、商いをし、田畑を耕して過ごす人も、みな同じことである』と。
解説
戒律を完璧に守れる人だけが救われるのなら、日々の暮らしを立てるために生き物の命を奪わざるを得ない漁師や猟師、あるいは商いに携わる人々には救いがないことになってしまう。ここでは、そうした日々の営みに生きるすべての人が、道徳的な優劣とは別の次元ですでに本願の対象とされていることが語られている。生業の違いによって人の値打ちを測るまなざしそのものへの問い直しである。
この章句が説くこと
生業戒律本願の対象