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玉勝間 / 七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事

九代隆泰、十代武房、(一說康成)文永弘安兩度の合戰に、對馬筑前に於て、蒙古人を討平げ、日本の武名を、異國に施せり。十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御爲に、博多に於て、討死。十三代武重、肥後守と號す。忠義の勤ノ、勇烈の志、都鄙にかくれ無し。十四代武士、(一說武俊、或武敏、或云武重甥、或云養子、或云武重弟、)十五代武光肥後守と號す、武重以來肥後國主となる。征西將軍ノ宮を補翼し、廿年の勤勞を以て、鎭西一統の武功をなす。九州の士庶、其號令に應ず。十六代武政、隈府に城をたつ。武光の代までは、菊の城と云ふところに居す。菊の城は、深川村の北に在。十七代武朝、肥後守又右京大夫と號す、法名常朝。十八代兼朝、肥後守又右京大夫といふ。十九代持朝、從四位肥後守と號す、月松屋形と稱す。廿代爲邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭禮あり。廿二代武運、從四位肥後守と號す、後に能運と改む。永正元年、能運死て、菊地の嫡流絕えたり。依て爲邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形といふ。

新字:九代隆泰、十代武房、(一説康成)文永弘安両度の合戦に、対馬筑前に於て、蒙古人を討平げ、日本の武名を、異国に施せり。十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御為に、博多に於て、討死。十三代武重、肥後守と号す。忠義の勤ノ、勇烈の志、都鄙にかくれ無し。十四代武士、(一説武俊、或武敏、或云武重甥、或云養子、或云武重弟、)十五代武光肥後守と号す、武重以来肥後国主となる。征西将軍ノ宮を補翼し、廿年の勤労を以て、鎮西一統の武功をなす。九州の士庶、其号令に応ず。十六代武政、隈府に城をたつ。武光の代までは、菊の城と云ふところに居す。菊の城は、深川村の北に在。十七代武朝、肥後守又右京大夫と号す、法名常朝。十八代兼朝、肥後守又右京大夫といふ。十九代持朝、従四位肥後守と号す、月松屋形と称す。廿代為邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭礼あり。廿二代武運、従四位肥後守と号す、後に能運と改む。永正元年、能運死て、菊地の嫡流絶えたり。依て為邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形といふ。

書き下し

九代隆泰、十代武房、(一説康成)文永・弘安両度の合戦に、対馬・筑前に於て、蒙古人を討ち平げ、日本の武名を、異国に施せり。十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御為に、博多に於て、討死。十三代武重、肥後守と号す。忠義の勤め、勇烈の志、都鄙にかくれ無し。十四代武士、(一説武俊、或いは武敏、或いは云う武重の甥、或いは云う養子、或いは云う武重の弟、)十五代武光肥後守と号す、武重以来肥後の国主となる。征西将軍の宮を補翼し、廿年の勤労を以て、鎮西一統の武功をなす。九州の士庶、その号令に応ず。十六代武政、隈府に城をたつ。武光の代までは、菊の城と云うところに居す。菊の城は、深川村の北に在り。十七代武朝、肥後守また右京大夫と号す、法名常朝。十八代兼朝、肥後守また右京大夫という。十九代持朝、従四位肥後守と号す、月松屋形と称す。廿代為邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭礼あり。廿二代武運、従四位肥後守と号す、後に能運と改む。永正元年、能運死して、菊地の嫡流絶えたり。依りて為邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形という。

現代語訳

九代隆泰、十代武房(一説に康成)は、文永・弘安の二度の合戦に、対馬・筑前で蒙古人を討ち平らげ、日本の武名を異国に示した。十一代時隆、十二代武時は法名を寂阿といい、後醍醐天皇のために博多で討ち死にした。十三代武重は肥後守と名のった。忠義の勤め、勇ましく激しい志は、都にも田舎にも知れわたっている。十四代武士(一説に武俊、あるいは武敏。あるいは武重の甥といい、あるいは養子といい、あるいは武重の弟という)。十五代武光は肥後守と名のった。武重以来、肥後の国主となる。征西将軍の宮(懐良親王)を補佐し、二十年の勤労によって九州を一つにまとめる武功を立てた。九州の武士も庶民も、その号令に従った。十六代武政のとき、隈府に城を建てた。武光の代までは菊の城というところにいた。菊の城は深川村の北にある。十七代武朝は、肥後守また右京大夫と名のり、法名は常朝。十八代兼朝は、肥後守また右京大夫という。十九代持朝は従四位肥後守と名のり、月松屋形と称した。二十代為邦、二十一代重朝の代に、隈府に孔子堂を建て、春と秋に祭礼を行った。二十二代武運は従四位肥後守と名のり、後に能運と改めた。永正元年、能運が死んで、菊池の嫡流は絶えた。そこで為邦の甥で肥前守重安の子の政隆に能運の跡を継がせ、菊池二十三代の屋形という。

解説

菊池家の系譜の中ほどで、この一族の最も輝かしい時代が語られる。元寇では武房が蒙古軍と戦い、元弘の乱では武時が後醍醐天皇のために博多の鎮西探題を攻めて討ち死にした。武重・武光は南朝方として戦い、武光は懐良親王を奉じて二十年にわたり九州を南朝のもとにまとめた。菊池一族は南朝への忠節で知られ、後の世に忠臣の家として語り継がれることになる。そして題にある隈府の孔子堂は、二十一代重朝の代に建てられ、春秋に祭礼が行われたという。室町時代の九州の地方豪族が孔子を祭る堂を持っていたことは、儒学の地方への広がりを示す事実として注目される。宣長は漢学を批判したが、地方の文化の実態を示す記録として、この一行を書き留めたのである。武勇の系譜の中に、学問への志も刻まれていた。

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