玉勝間 / 七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事
肥後國古今城主考と云物に云はく、益城ノ郡岩尾ノ古城は、矢部轟村の邊に有り、阿蘇ノ大宮司、岩尾在城と、古記にあり。いづれの大宮司と云ふことは分明ならず、大宮司始めは阿蘇、其後小國南〓矢部に居住す。文龜の末永正の初〓より、菊地家衰弱して、國中次第に敗亂に及べり。此節大宮司は、四箇の神領の外、益城一部、其外所所手に入ると見えて、幕下の士、所所の城主たる者多し。天正十五年六月、秀吉公、矢部の內にて、三百町寄附、其餘は沒收せらる。惟乘神主より、二位惟豐惟將惟種の代に至りて、阿蘇家最盛なり。惟種の次、惟善友貞友隆と次第す。菊地郡隈府ノ古城は、後三條院延久四年、(一云二年)大夫將監則隆、當國に下向し、菊地の領主となる、是を菊地の始祖とす。則高は、中ノ關白藤ノ道隆公四代の後胤なり。則隆の子經隆を、菊地二代と稱す。後に若宮の靈社と號す。三代經賴、四代經宗、鳥羽院の武者所と稱す。五代經直、六代隆直、肥後守と號す。安德天皇の勅命に隨ひて、忠あり、隆直事、東鑑に見えたり。七代隆定後鳥羽院に仕へ奉り、武者所になれり。八代能隆は、豐後の大友の始祖能直の婿なり。
新字:肥後国古今城主考と云物に云はく、益城ノ郡岩尾ノ古城は、矢部轟村の辺に有り、阿蘇ノ大宮司、岩尾在城と、古記にあり。いづれの大宮司と云ふことは分明ならず、大宮司始めは阿蘇、其後小国南〓矢部に居住す。文亀の末永正の初〓より、菊地家衰弱して、国中次第に敗乱に及べり。此節大宮司は、四箇の神領の外、益城一部、其外所所手に入ると見えて、幕下の士、所所の城主たる者多し。天正十五年六月、秀吉公、矢部の内にて、三百町寄附、其余は没収せらる。惟乗神主より、二位惟豊惟将惟種の代に至りて、阿蘇家最盛なり。惟種の次、惟善友貞友隆と次第す。菊地郡隈府ノ古城は、後三条院延久四年、(一云二年)大夫将監則隆、当国に下向し、菊地の領主となる、是を菊地の始祖とす。則高は、中ノ関白藤ノ道隆公四代の後胤なり。則隆の子経隆を、菊地二代と称す。後に若宮の霊社と号す。三代経頼、四代経宗、鳥羽院の武者所と称す。五代経直、六代隆直、肥後守と号す。安徳天皇の勅命に随ひて、忠あり、隆直事、東鑑に見えたり。七代隆定後鳥羽院に仕へ奉り、武者所になれり。八代能隆は、豊後の大友の始祖能直の婿なり。
書き下し
肥後国古今城主考と云う物に云わく、益城の郡岩尾の古城は、矢部轟村の辺に有り、阿蘇の大宮司、岩尾在城と、古記にあり。いずれの大宮司と云うことは分明ならず、大宮司始めは阿蘇、その後小国・南郷・矢部に居住す。文亀の末永正の初めより、菊地家衰弱して、国中次第に敗乱に及べり。この節大宮司は、四箇の神領の外、益城一部、その外所々手に入ると見えて、幕下の士、所々の城主たる者多し。天正十五年六月、秀吉公、矢部の内にて、三百町寄附、その余は没収せらる。惟乗神主より、二位惟豊・惟将・惟種の代に至りて、阿蘇家最も盛んなり。惟種の次、惟善・友貞・友隆と次第す。菊地郡隈府の古城は、後三条院延久四年、(一に云う二年)大夫将監則隆、当国に下向し、菊地の領主となる、これを菊地の始祖とす。則高は、中の関白藤の道隆公四代の後胤なり。則隆の子経隆を、菊地二代と称す。後に若宮の霊社と号す。三代経頼、四代経宗、鳥羽院の武者所と称す。五代経直、六代隆直、肥後守と号す。安徳天皇の勅命に随いて、忠あり、隆直の事、東鑑に見えたり。七代隆定後鳥羽院に仕え奉り、武者所になれり。八代能隆は、豊後の大友の始祖能直の婿なり。
現代語訳
「肥後国古今城主考」というものに次のようにある。益城郡の岩尾の古城は、矢部の轟村のあたりにある。阿蘇の大宮司が岩尾に在城したと古い記録にある。どの大宮司かははっきりしない。大宮司ははじめ阿蘇にいて、その後、小国・南郷・矢部に住んだ。文亀の末、永正の初めから菊池家が衰え、国中が次第に乱れていった。この時、大宮司は四か所の神領のほか、益城郡の一部やそのほか所々を手に入れたと見えて、配下の武士で所々の城主となった者が多い。天正十五年六月、豊臣秀吉公が矢部のうちで三百町を寄進し、その残りは没収された。惟乗神主から、二位惟豊・惟将・惟種の代にかけて、阿蘇家は最も盛んであった。惟種の次は、惟善・友貞・友隆と続く。菊池郡隈府の古城は、後三条院の延久四年(一説に二年)、大夫将監則隆がこの国に下向して菊池の領主となった。これを菊池の始祖とする。則隆は、中関白藤原道隆公の四代の子孫である。則隆の子経隆を菊池二代という。後に若宮の霊社として祭られた。三代経頼、四代経宗は鳥羽院の武者所と称した。五代経直、六代隆直は肥後守と名のった。安徳天皇の勅命に従って忠節があった。隆直のことは吾妻鏡に見える。七代隆定は後鳥羽院にお仕えし、武者所となった。八代能隆は、豊後の大友氏の始祖能直の婿である。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事然れども国中諸士の心一致せず、同二年、国侍八十四人、連判の誓書を以て、阿蘇の大宮司惟乗の長子、惟長を申しうけ、菊地の養君とす。(惟長は二位惟豊の兄なり、)名を武経と改む。これより政隆と武経と鉾楯す。豊後の大友氏、阿蘇家に心を通じて武経を助く、同六年、政隆自殺す。これより国中みな武経に従う。然るに後に武経、阿蘇・大友にくみせず、暴逆のふるまい有りて、没落す。菊地武包を奉じて、廿四代の屋形と称す。武包は、菊地の庶流託摩武安が子なり。屋形の名のみにて、孤弱なり、後には高麗へ赴けりと聞こゆ。同十七年、大友義長、菊地家の重臣と相議して、その子重治を以て、菊地家をつがしめ、廿五代の屋形と称す。後に義宗と改め、また義武と改む、右兵衛佐と号す。従四位に叙せり。後に大友家に叛き、悪行有りて、人望を失い、他国へ流落して、ついに菊地家絶滅せり。
-
『玉勝間』七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事九代隆泰、十代武房、(一説康成)文永・弘安両度の合戦に、対馬・筑前に於て、蒙古人を討ち平げ、日本の武名を、異国に施せり。十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御為に、博多に於て、討死。十三代武重、肥後守と号す。忠義の勤め、勇烈の志、都鄙にかくれ無し。十四代武士、(一説武俊、或いは武敏、或いは云う武重の甥、或いは云う養子、或いは云う武重の弟、)十五代武光肥後守と号す、武重以来肥後の国主となる。征西将軍の宮を補翼し、廿年の勤労を以て、鎮西一統の武功をなす。九州の士庶、その号令に応ず。十六代武政、隈府に城をたつ。武光の代までは、菊の城と云うところに居す。菊の城は、深川村の北に在り。十七代武朝、肥後守また右京大夫と号す、法名常朝。十八代兼朝、肥後守また右京大夫という。十九代持朝、従四位肥後守と号す、月松屋形と称す。廿代為邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭礼あり。廿二代武運、従四位肥後守と号す、後に能運と改む。永正元年、能運死して、菊地の嫡流絶えたり。依りて為邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形という。
-
『玉勝間』十一の巻 肥後国阿蘇ノ神社肥後国の阿蘇山は、麓より三里のぼりて、山の上に大なる池有りて、つねに湯わきあがりて玉を散らし、いみじく火のもゆるを、その火のもゆること熾なる時には、石をとばして、池のほとりに近づき難し。神社は、山の下なる宮地村と云うにたたせ給えり。そのさま左にしるせる図の如し。一の宮は健磐龍命の神社。二の宮は阿蘇比咩の神社。国造神社は速瓲玉命、金凝神社は綏靖天皇におわしますなり。大宮司は、姓は宇治朝臣と云う。その宅は、件の宮地村をすこし離れて、大宮司屋敷と云う所に有りと、肥後の国人の語れるなり。今思うに、瓲をかめと唱うるは誤りにて、かの御名ハヤミカタマなるべし。また金凝の神社を、綏靖天皇と申すも、神八井耳の命を誤れるなるべし。さて大宮司の姓、今宇治の朝臣と云うは、いかなる由にて、いつの代よりの事ならむ。古事記に阿蘇の君とあるこそ、この氏とは聞こえたれ。
-
『玉勝間』十の巻 御子左二条家冷泉家の事薨じて藤谷の岡に葬る、墳墓なお存す。為相、為成を生む、左兵衛督たり、早世す。弟為秀嗣ぐ、権中納言。建武の乱の後、細河・小野両荘、人の為に奪わる。為秀告げ訴うるに由無く、徒らに哀痛を抱く。為秀に二男有り、長を為邦と曰い、次を為尹と曰う。為邦は為氏の孫為明の子となり、御子左家を継ぐ。騒乱の間、その世禄を失い、ただ典籍を携えて家居し、尋いで早世す。為尹乃ち為秀の後を嗣ぎ、民部卿たり、権大納言たり。応永二十三年丙申五月十八日、将軍左大臣義持公、播州細河荘を為尹に還し付す。爾来伝えて為純に至るまで、争う者有ること無し。為尹に三子有り、長を為之と曰い、次を為員と曰い、次を持和と曰う。持和生まれて穎悟、才二兄に過ぐ、故に為尹太だ之を愛す。釈氏請いて以て弟子と為さんとする者有れども聴さず。左大臣義持公、持の字を賜い、持和と名づく。因りて伯父為邦の後嗣となり、奇書秘笈を伝え、御子左の号を襲ぐ。采邑給せざるを以ての故に来たり帰る。為尹乃ち細河の地を分かち与え、冷泉と号す。吾が家今なお二条の家規を井せ用うるは、本これより出ず。後に名を持為と更む、権大納言。持為、成為を生む。将軍左大臣義政公、初め成の字を賜い、後に政の字を賜う、因りて名を政為と改む。享徳二年癸酉五月二十五日、江州小野荘を還し付す。民部卿を兼ね、権大納言たり。政為、為孝を生む、侍従中納言たり。為孝、為豊を生む、侍従従三位。為豊、為純を生む、参議侍従。累世播州に住み、歳時に入朝す。子数人有り、長を為勝と曰う、左近衛権少将たり。次を〓勝と曰う。次は乃ち先生なり。幼くして僧となり、既に長じて、常に聖賢の書を読み、儒術に志嚮し、後遂に還俗す。名は粛、字は斂夫、惺窩と号す。行状に詳らかなり。次を俊久と曰い、姓を源に改め、名は有親、六条有孝の後を継ぐ。次を為将と曰う。天正六年戊寅、
-
『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
-
『玉勝間』十一の巻 肥後国の神楽歌地誉歌。むかしより世をはじめ給うおお太子よのよきことをおきてはじめん、御手幣を手にとりもちておがめば、四方の神も花とよむらん、よき馬によきくらしきて手綱かけ朝日にむいて神をしょうせん、神の父いずくにますぞ幣さしてとおりにまいる神をしょうせん、神の母いずくにますぞみくまもり出雲にまいる神をしょうせん、神しょうし磯をぞまわるあまおぶねかいかじそろえ船子さだめん。高所。たんなんたいらの神棚にかおよき女体おわします、おっとはたれぞととい(ひ)たれば松のうら葉のとみ男、おさなききんだちみやしろに学問せよとてあけたれば、うめと桜にたわむれて五葉の松とぞなり給う、われらが植木のせきようはつくつくぼうしをなべすえて、あゆみ給えばあとごとに七本蓮花の花ひらく、南おもてのひろ縁にいとげの車やりすえて、南面の泉水にようある鳥こそきていたり、この殿のみかどのまえにはよしうえてまいれる人によしといわせん、この殿の十二の柱はかねよたたおせどもひけどもなびかざらまし、この殿をあたらし殿とたれかなづく九国のとののふるやなるもの、酒殿に酒はつくりつももはらやちはらの酒ぞ神はめすらん、酒殿に風の吹かしさらさらとしげ木が本を宿とさだめん、酒殿に入り来るとみのかえらんばおかの子共と物語せん。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る