酔古堂剣掃 / 集倩・遊戲の三昧を具ふ
舌頭無骨,得言語之總持;眼裏有筋,具遊戲之三昧。
新字:舌頭無骨,得言語之総持;眼裏有筋,具遊戯之三昧。
書き下し
舌頭に骨無くして、言語の總持を得。 眼裏に筋有りて、遊戲の三昧を具ふ。
現代語訳
舌に骨がないので、言葉を自在に操る力を得ています。目の中に筋が通っているので、遊びの中の悟りの境地を備えています。
解説
言葉と目の働きを、仏教の言葉を借りて言い表した一則です。舌頭無骨は、舌に骨がないので自由自在に動く、つまり言葉が滞りなく出てくることを言います。総持は仏教の言葉で、梵語の陀羅尼の訳語であり、あらゆる教えを記憶し保持する力のことです。ここでは言葉の力を自在に使いこなすことを指しています。後半の眼裏有筋は、目に筋が通っている、つまり物事を見る目にしっかりした芯があることと読めます。遊戯三昧は禅の言葉で、何ものにもとらわれず、遊ぶように自在にふるまいながら、そのまま悟りの中にある境地を言います。柔らかな舌と筋の通った目、自在さと確かさという対比がこの句の要です。言葉は柔らかく自在に、ものを見る目は確かにしっかりと、という姿勢は、人と接する上でも大切な心がけでしょう。
この章句が説くこと
禅言葉自在仏教遊戯
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