酔古堂剣掃 / 集倩・雞犬と同じく仙と為る
塵情一破,便同雞犬為仙,世法相拘,何異鶴鵝作陣。
新字:塵情一破,便同鶏犬為仙,世法相拘,何異鶴鵝作陣。
書き下し
塵情一たび破るれば、便ち雞犬と同じく仙と為る。 世法相拘せば、何ぞ鶴鵝の陣を作すに異ならん。
現代語訳
俗世の情をひとたび打ち破れば、鶏や犬と同じようにたちまち仙人になれます。世間の決まりごとに縛られていれば、鶴や鵞鳥が無理に戦の陣形を組まされているのと何の違いがあるでしょうか。
解説
俗世の執着を断てば自由になり、世間の決まりに縛られれば不自然になる、という対比の一則です。雞犬為仙は、前漢の淮南王劉安が仙薬を飲んで昇天したとき、残った薬をなめた鶏や犬までが一緒に天に昇ったという話に基づきます。ここでは、心の塵を払いさえすれば、特別な修行をしなくても、鶏や犬のように自然に仙人になれる、という意味で使っています。後半の世法は世間の決まりや作法、相拘は縛りつけることです。鶴鵝作陣は、自由に空を舞うはずの鶴や鵞鳥が、兵の陣形のように並ばされている姿で、古代の戦陣に鵝鸛の陣という名があったことも踏まえているのでしょう。本来の自由な性質を失い、形式に縛られるおかしさと窮屈さを皮肉っています。決まりごとは必要ですが、それに縛られすぎて本来の自分らしさを失っていないか、ときどき振り返ってみたいものです。
この章句が説くこと
脱俗自由神仙処世形式
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